その夜二人は屋敷のライブラリーでソファにかけて遅くまで話していた。美しく飾られたオードブルとブランディで古い本の話をしている間に、どちらもお互いの性質や考え方がわかって来て、とりとめもなく話すのが楽しくなって来たからだ。
年代を経た革装丁の重々しい本が天井まである書架に並び、見事なシャンデリアの灯りの下にはルイ十六世時代の優雅なアンティークが配されている。
ライブラリーと言っても一万冊を超える本が収められているから、かなりゆったりとしたスペースだ。向こうにはビリアード台も見える。柱時計が静かに流れる時を厳かに数えてゆく空間に、綾の声が響いていた。
「歌を歌うっていうのはさ、ウォルター、どういうものなの。・・・っていうのはつまり歌謡曲じゃなくてあんたが歌ってるみたいな歌。
自分の感情の底の底まで晒しものにするというのは気分がいいことなわけ」
「そういうのとは違う気がする」
「じゃあどういうの」
綾はブランディ・グラスを温めていたが、少し飲んでからウォルターを見た。
「よく飲むなあ・・・、さっきから見てると。それも割らないで」
「ブランディなんか割って美味しい?」
「そりゃ美味しくないだろうけど。十七才って日本でもお酒飲んじゃいけない年じゃなかったっけ」
「え、そうなの」
「とぼけないでよ」
「いいじゃない、ちょっとくらい」
「きみのちょっとっていうのは・・・」
「そんなことより歌の話。さっき聞いたのどうなってるの」
綾はグラスをテーブルに置くとまた注ぎ足している。
彼女は十代の頃から周囲にうわばみと陰口をたたかれるくらい酒が好きだ。否定しているのは本人だけだが、しかも強くて何を飲んでも絶対割らない。
修三さんのお仕込みもあって、中でもワインにかけては相当な知識と感覚を持ってさえいた。
「そうだなあ・・・」
ウォルターはソファに深くかけ天井を見上げていたが、やがて言った。
「気分がいいって言えなくもないけど、それよりは淋しいからだろうと思うよ」
「淋しいって?」
「たぶん自分を理解してもらいたいんだろうね。通り一遍なところじゃなくて深いところまで」
「・・・・・」
「そりゃダンやドリーもいてくれるし、友達もたくさんいるし、子供の頃から良くしてくれた人たちっていっぱいいるしね。
音楽もあるし好きなものもたくさんある。愛してるものも人も両手で数えられないくらいあって、幸せだなあって思うこともあるんだけど、・・・それもひんぱんに。でも・・・」
「淋しいわけ?」
「そう」
「どうして」
「さあ。・・・両親早くに亡くしてるからってのもあるんだろうけど。子供の頃から探してたような気がする。
ぼくの考えてたこと、みんなわかってくれるひと、っていうのかな」
「ダンなんかじゃだめなの?」
「そういうのじゃなくて。・・・彼はやっぱりすごい人だと思うよ。考え方とかやって来た仕事でも。
それにぼくのやりたいことを理解してくれてるし、ダンもドリーもそれにベンも、今じゃぼくにとっては大切な家族みたいなもんだけどね。
でも、ちょっと違うんだ。だから例えば綾みたいに聞いてくれるひと」
「ぼくみたいって?」
「初めて聞いてくれた時みたいな、ああいう・・・。ね、綾、ぼくがどうしてその東洋人の女の子に会いたかったかわかるかい」
「さあ」
「きみみたいに聞いてくれる人をいつもぼくは客席に置いて歌ってたから」
「そうなの?」
「うん。だからびっくりしたんだ、あの時。いつもはぼくのイメージの中にしかいない誰かが実体化しちゃってたからさ」
綾にはウォルターの言う淋しいの意味がわかるような気がしていた。加納修三が綾に執着するのとそれは全く同じ理由と言っていい。
スティーヴが彼らを神々の血を引いているとまで言うのは何もその非人間的な才知にばかり由来しているわけではない。
最も大きい理由は彼らの執着心、つまり感情の深さの方なのだ。愛するにしても憎むにしても人間から見ればそれは十分に狂気の域にある。企画サイズの人間同士ならどれを取っても大した差はないから簡単に取りかえがきくのだろうが、神々となるとそういうわけにはゆかない。何をするにしても全存在がかかってしまうのだから、なまじな愛しかたなど出来ないのだが、結局のところそれは次元が違うということなのだろう。
生まれつきそういう性質を持った綾や修三氏のような人たちは、その哲学的な視野と相乗して言ってみればある種の真空で生きているようなものだ。それは社会の底辺で手近な日常を全世界として生きている多くの人たちとは隔絶された空間と言っていい。そこにあるものは凄絶な孤独以外のものではない。
ウォルターの視野や思想性もやはり芸術家のものである以上、彼もその同じ断層にさいなまれずにはいないのだろう。そして、だからこそその音楽は綾の耳を魅いたのだ。
「世の中の人たちって淋しくないのかなってよく思うよ。あんな風で」
ウォルターがため息をついて言ったのへ、綾は素っ気なく答えた。
「理解できないんだよ」
「え」
「自分が淋しいんだって理解できないのさ、バカだから」
ウォルターは聞き間違ったんだろうか、という意外そうな顔をしている。
「昔っから言うじゃない。芸術家と市民とか人と超人とか、それって思想性や視野の問題だろ。例えば歌でもね、ウォルターの歌詞って象徴詩じゃない。
あれはちょっと誰にでもわかるってしろものじゃないと思うけど、ただの歌謡曲と全く違うだろ。
短い言葉で哲学性を象徴して、膨大な論文になりそうな思想をラヴ・ソングに凝縮してしまう。
日本には歴史的に象徴詩というものが存在しないからね、そういう英語詩を日本語に直すとほんと、おかしいよ。ものの見事に三文歌謡曲になっちゃって。
でもそれって英語圏の人間でも同じだろ。一度聞いて象徴性を見抜くっていうのはやっぱり限られた人にしか出来ないことだ。
それが思想性の差なんだよね。まるで違う宇宙に生きてるみたいに、価値観がずれてるんだ」
ウォルターは考え深げに頷いている。
「全く違う宇宙か。なるほどね」
「同じ空間にあるのにパラレル・ワールドというかさ。同じ言葉なのに共鳴するかしないかっていうのは精神性の中にある種の振動板があるかないかなんだよね。
大半の人間にはない。それが"市民"なんだろ。"芸術家"が浮くのも仕方のないことかもね。ま、この場合、芸術家って言葉自体が象徴句だけどさ。わかるだろ」
「うん」
「ぼくたちの話す言葉は人間にはわからない。まるで同じ音なのに内容が違って聞こえるんだものね。淋しいのはそのせいだと思うな。でも人間・・・、だから"市民"の方ね。
そういう人たちってもともと感情の作りが大雑把なんだよ。せいぜい感じて満足、不満足、嬉しい、悲しいくらいだろ。
もともと深い愛情なんてものが許容できるような繊細な精神じゃないから、そんなものがなくたって淋しいとは思やしない。
せいぜい不幸だと思うくらいだろうね。おまけに頭が悪いから視野がおそろしくせまい。自分の回り数メートルしか見えてないんじゃないかと思うことがあるよ」
「救いようがない、という言い方だね」
「人をばかにしてるとか傲慢とかよく言われるよ。でも隠したって仕方ないだろ。これがぼくなんだから。それに自分だってそう思ってるくせに」
言われても、ウェルターはすぐには答えられなかったようだ。
「否定する?」
「・・・しない」
「多かれ少なかれ結局そう思ってるんだ、ぼくたちは。人間は愚かだってね。ウパニシャッドの昔から少数の偉大な哲学者は同じことを言い続けて来た。
諸行無常、唯我独尊、てさ。ところが愚かな人間どもときたら同じように曲解してすべて宗教に堕(お)としてしまうんだ。哲学は宗教に堕せば何をも救う力はなくなるのにね。
なぜなら宗教ってのは自我を否定するところに立脚するからさ」
ウォルターは黙って聞いていたが、目の前にいる今の今までかわいらしい女の子だとばかり思っていた十七才の少女が、
外貌はそのままで人格だけすり替わったような不思議な錯覚が彼にはあった。
「それと同じように自我を否定することによって成立するのが社会、言い替えれば概念の集積だよ。
国家、人種、性別、宗教、あらゆる幻影を固定化することによって現実社会が成立している。
人間はその檻の中で生きていて、ぼくたちはそれを凌駕する所で生きてるんだよね。だから決して融合しえない」
「・・・・・」
「どうかした?だまっちゃって」
「いえ。・・・きみを十七才の女の子って言ったの、失礼だったかと思ったりして」
綾はにっこりしてわかればよろしい、と答えて続けた。
「まあ、それはともかく。・・・ぼくも仕事が仕事だから、最も核心的なところで人間の本質と関わってきたわけだけど、例えば今世界中でいくつも内戦が続いてるだろ。
それだって、殆どすべてが人種や宗教が原因で起こってるわけだよね。もともとある集団が別の集団を弾圧したり搾取したりするから抵抗されてるってのが一般的な図式だよ。
シュバイツァー博士は素朴な民族主義が平和を破壊するって言ったけど、正しいと思うね。
民族主義と言ってもそれは現代の被支配層が支配層から独立しようとする動きばかりではなくて、
もともとヨーロッパがアフリカを植民地化しようとしたのもヨーロッパ民族主義だし、日本がアジアを侵略しようとしたのも日本民族主義だと言える。
自分達の文化や宗教に誇りを持って尊重しようとするのは一向にかまわない。でも民族主義は一歩間違えば自分達以外のものを認めようとしない国粋主義に陥る危険性があるんだ。
自分達の文化を尊重するように他の文化を尊重する気持ちがあればずいぶん違うはずなのにね。
結局人間一人一人の意識が人種や国境の壁を作っているってことだよ。
しかもそれは少数の支配階級に取っては国民をまとめる上でとても有効な手段だから、政府によってそれが強調されると、もともと思考力を持たない多くの国民はそれに同調する。
その勢力に抵抗しようとする被支配層も対抗上、国籍や民族を強調してまとまろうとする。要するにそれが歴史の正体なんだよね。
アイザック・アシモフの言うように歴史を符号化して公式化することはだからこそ可能なわけ。歴史は繰り返しているから。
でも国だの民族だの言ったって、そんなもの所詮、集団の単位じゃないか。そんなもののために何万って人が死ぬなんてばかげてるに決まってる。
観念形態のために人間がいるんじゃなくて、人間のためにこそイデオロギーが機能しなければならないのにね」
ウォルターが黙って考え深げに聞き入っているのへ綾は微笑して見せた。
「ウォルターのあの歌詞、ぼくは好きだな。"You
can keep your culture, right. But why can’t you say you’re an earthling.(自分の文化を守るのはかまわないけど、どうして同じ地球人だと思えないんだろう)"」
綾がウォルターのを引用して見せたのへ、彼は笑って言った。
「ありがとう」
「ね、ウォルター」
「何?」
「馬、乗れないの」
「少しくらいなら。あ、でも、あんなすごいサラブレッドなんかだめだよ、絶対」
「おとなしいアパルーサがいるよ。乗れるんなら明日遠乗りしようよ」
「えー、でも。・・・ほんと、きみみたいには乗れないよ」
「いいって、ゆっくり走るから。いいだろ。連れて行きたい所があるんだ」
「んー。約束してくれるんなら」
綾はいつになくはしゃいで、する、絶対、と言っている。それを聞いてやっとウォルターは頷いた。
Book1 original text
: 1996.10.15〜1997.1.15.
revise : 2008.8.26.
revise : 2010.11.28.
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