「OK、ウォルター。おまえさえ良いならおれはこれで満足してるんだけどね。いいか」
ダンが録音室から出て来てマイクの側で歌い終えたウォルターに言った。ウォルターはにっこりすると頷いて、いいよ、と答えた。
ニューヨークに戻って二週間、これで最終のスタジオ録音がやっと終わったのである。綾も来ていてスタッフと一緒に聴いていたのだか、ウォルターがOKを出したのを見てスタジオに入って来た。
「おめでとう、ウォルター。やっと終わったね」
綾を抱き寄せると彼はありがとう、と言った。
「みんなきみのおかげだ。感謝してる」
「何にもしてないよ。ウォルターの実力じゃない」
綾が答えると彼は嬉しそうににっこりしてその頬に短くくちづけし、今度はダンを振り返った。
「それにダンにも。感謝してます、わがままばっかり言ったのに」
言ってウォルターは右手を差し出した。それと握手を交わしながらダンは満面笑みで答えている。
「おまえのわがままには馴れっこだよ。ま、とにかくよくがんばったよ。おれもここしばらくで一番いい仕事をさせてもらったと思う。こっちこそ礼を言わなきゃな」
ウォルターは首を横に振った。
「久しぶりに晩めし食いに来いよ。今日あたり終わるってドリーに言っといたから凄いぜ、きっと。あ、姫もな」
二人は頷いている。
十一月の声を待ってデヴュー・アルバムの発表を兼ねたパーティーが開かれることになっている。が、それと前後してウォルターは、そして仕事に戻らなければならない綾も忙しくなるはずだった。
ニューヨークは夏の酷暑もすでに終わり、気持ちのいい秋を迎えようとしている。その夜はダンの言っていた通りドリーが大はしゃぎでロースト・ビーフを焼き、綾が屋敷のカーヴから持って来たとっておきのドン・ペリニオンを開けてお祝いした。誰の目から見てもウォルターの成功はまず間違いのないところだったから、思う存分の前祝いである。
こんなに喜んでもらっといて売れなかったらどうしよう、とウォルターだけがまじめに心配していたが、他の三人はそんなもの笑い飛ばしていた。それほど彼の初めてのアルバムは完成度が高く、それはすぐに多くの音楽評論家やそして何よりも世界中のオーディエンスからの反響で立証されることになる。
しかし、まだそれを知らない二人が夜中までダンのところで騒ぎ、やっとウォルターの部屋があるヴィレッジに戻った時には午前一時をすっかり過ぎていた。綾はニューヨークに戻ってから殆どロングアイランドの家には帰らずウォルターのところに転がりこんでいたのだ。彼も綾がそんな突拍子もないことを言い出したときには、とてもきみが我慢できるようなとこじゃないから、とあわてまくっていたのだが、この姫君だけはそんなことを気にするようなタマではない。結局ウォルターの方も綾と一緒にいたくて折れたわけだが、いつの間にか拾って来たノラねこみたいに居ついてしまって、既にウォルターも全く気にしていなかった。
帰って来るなりベッドに転がりこみ、しなやかな二体の野生の獣が吸い寄せられるように肌を重ねて、淡い陽光が微かに窓辺を浸すまで二人だけの夢を見て過ごした。開いた窓から流れこんで来る早朝の風はすでに深い秋を思わせ、ベッドで綾のくわえている煙草の煙がゆっくりと視界を横切ってゆく。
「ね、ウォルター」
「ん?」
「二、三日したら一度東京に帰るつもりなんだ」
綾が言ったのへ彼はびっくりして腕の中の彼女を見た。
「本当?」
「うん。・・・家族が心配してるからね。ウォルターのレコーディングが終わるまでとは思ってたんだけど。・・・もう安心だし」
「・・・綾」
不安そうに自分を見ているウォルターに微笑して綾はくちづけすると、心配しないで、と言った。
「すぐにまた戻って来るから。来月のパーティのこともあるし、プロモーションの方も目を離したくないからね」
言われても、彼の表情は曇ったままだ。
「ウォルター?」
「・・・どのらいで帰る?」
「一週間くらいだよ」
ウォルターは頷いて、そうだよね、と言った。
「え・・・?」
「長いこときみを一人じめしてたんだもの。ご家族に申しわけないことしてたな」
綾は笑ってそんなことないよ、と答えた。
「どちらにせよ、ぼくが家を空けてるなんて珍しいことでもないし。ただ妹がね」
「妹がいるの」
「うん、マキっていうの。あまえたでぼくにべったりなついてるから。夏休みもすっぽかしたし、ご機嫌ななめらしくて」
「そう・・・」
「すぐに帰って来るから」
「はい」
「いい子にしてるんですよ」
綾の冗談に彼は笑って、一生懸命お仕事してます、と答えた。窓の外では、そろそろ早い朝の喧騒が静かに満ちて来ようとしている。
Book1 original text
: 1996.10.15〜1997.1.15.
revise : 2008.10.7.
revise : 2010.11.29.
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