It dispenses with both in favour of desire. *** 午睡から醒めたライオンの見る夢 ***
この章では「Jacques Derrida」と「Lions After Slumber」を関連させて解説したいと思っています。 前章までで主に説明して来たことは、「他者のために生きる」という西洋倫理哲学の理想に合致した生き方をして来た理想家が、その限界に気付いて180度方向転換し、あえて悪魔の声(内的な衝動)に耳を傾ける生き方を選ぶということでした。そしてそれこそが真実と真の理想の追求であり、また本当の愛は表面的で偽善的な「善行」の中にはなく、あえてその内的な衝動(desire)に起因するものであるということでもあります。 まず「Jacques Derrida」ですが、タイトルがジャック・デリダというフランスの哲学者(20世紀最大の天才哲学者と言われ、ディコンストラクションの提唱者)の名前なので、彼に関する歌なのかなと漠然と信じてしまいがちですが、あるインタヴューでグリーンが語っているところによると、この曲は「左翼主義も右翼主義も魅力的なものの前では引き裂かれ、切望のために不要なものになる」ということについて歌った歌なのだそうです。つまりこの曲においてジャック・デリダはグリーンに取ってひとつのターニングポイントのきっかけとなった人物であることは確かで、だからこそキーワードとしてタイトルに用いられているとも言えるのですが、歌詞全体の流れを把握してゆくと実際には他の曲と同じように作詞者の心の中での変化について歌っていることが明らかになります。そしてその内的な変化とは、自己犠牲の精神を捨てて自己の切望に忠実になることであり、結果として次の「Lions After Slumber」は、うるさいほどMyという所有格つまり自己の所有に対する執着にこだわった歌詞になっていると言えるでしょう。実際「Lions After Slumber」は全編がMyという所有格に続く名詞の羅列で、ストーリー性は絶無、哲学性もないように見えますが、何よりもこの「所有に対する執着」こそが居眠りから醒めたライオン(Lions After Slumber)の精神性を象徴しているものなのです。突き詰めて言えば、この作詞者は「パンク時代の自分は昼寝してたも同じ、今では目が醒めているから自分の執着心に忠実に生きることにした」という気持ちをこれらの曲にこめているように思います。前章のUMMについて書いた時にもありましたが、「太陽が輝いていることも知らなかった、夜か昼かも分からなかった」というのは、即ちライオンが昼寝中だったことと本質的に同じことを言っているわけですね。 では、曲の細かいディテールから見ていきたいと思いますが、この曲に関してはSP UKのジェームズ・ローランスが聞き取りで書いた歌詞と、国内版の歌詞カードにかなり差が出ていてずいぶん戸惑いました。でも今回発売された再リリース版では全くと言っていいほどジェームズの聞き取り分と同じものになっていて、私の耳でも殆どそちらが正しいように思えるのと、意味の上からも適切と考えられることから、そちらの方を参考に解説してゆきます。ただ、どうしても3箇所ほど真意を特定出来ないために、どれが正しいと言い切れない部分もありますが、それは作品の大意からいけば瑣末な部分なので、とりあえず歌詞の流れに重点を置いて解析してみましょう。ちなみに国内版で手元にあるものは東芝EMIからCDでリリースされていたものです。こちらの歌詞は文法上から見ても疑問に思う部分がいくつか見受けられることでもあるので、現在そのCDの歌詞カードをお持ちでも、ここで解説する内容とは違っていることをご了承の上お読み下さい。再リリース版の歌詞の方は、このページの下で対訳を書いているので、そちらでご覧になれます。 まずこういった作品を読もうとする時にはいつもやることなんですが、I、he、you、babyなどの代名詞や普通名詞が、特に何を意味しているかを特定するところから作品の全体像を描いてゆくのが基本です。この歌詞で、Iはもちろんグリーン自身ですが、you、babyとも彼自身の一部をそれぞれ指しています。Heに関しては冒頭の部分ではジャック・デリダを指しているのかとも思うのではっきりしないんですが、中盤の「He held it like a cigarette〜」のHeはおそらくグリーン自身のことだと思います。それから判断した全体像を明かしてしまうと、先にも書いたようにジャック・デリダの著書をきっかけとして、それまで自分に強いてきた自己犠牲精神に終止符を打ち、自我に忠実に生きて行こうと方向転換すること、そしてそのためには内的な衝動のゆえに左翼主義的な生き方を放棄しなければならない、という内容が見えて来ます。歌詞の細かい部分の解釈には諸説あると思いますが、大意に関してはこれで間違っていないでしょう。これは1980年前後の様々なインタヴューでも語られているように、グリーンの音楽的方向転換、即ちパンクからポップへの方向転換が、こうした思想的背景を伴って行われたものであるということとも合致する内容です。当時は「身売り」とまで言われたスクリッティの方向転換でしたが、グリーンの名誉のためにあえて言うならば、彼は単にポップが売れる音楽だから鞍替えしたわけではなくて、自身も語っているようにポップの中にある語られざる真意に共鳴し、それこそがバンクを放棄した後の自分に最も相応しい表現形態であるからこそ、それを選んだのだと言えるでしょう。 さて、この歌詞で特に重要なのは「Here comes love for ever, And it's here comes love for no-one(ここに永遠の愛がある、ここに誰のためでもない愛がある)」からコーラスにかけての部分です。永遠の、しかも誰のためでもない愛、ここが重要な部分で、以前にどこかでも書いたと思いますが愛というものは本来、自己犠牲の上に成り立ったものではなく内的な衝動に起因するものであるという点から見て「誰のためでもないもの」なのです。強いて言うならば、例えばROXY MUSICの「Love is the drug」という曲のタイトルにも端的に表現されているように、自分を酔わせるもの、つまり自分のためのものだということですね。そして偽善的な自己犠牲精神には無理があるためにいつまでも続かないけれども、内的な衝動に起因する愛情というものは本物であるがゆえに永遠に壊れないものでもあるということです。グリーンは今ここにそういった「真実の愛の意味」を見出していると、この部分では言っているように思います。 これに先んじる部分では「How come no-one ever told me, who I'm working for(何故誰もぼくが誰のために働いているのか教えてくれなかったんだろう)」という問いかけがありますが、これはそれまで人の力になること、社会を良くすることを理想として掲げていたグリーンにとって、いったいそれが何のためだったのか、という自問自答でもあるわけです。そしてそうした自己犠牲精神に基づくものではなくて、新しい思想基盤を得た彼にとっては、すぐに壊れてしまう他人のための「愛」ではなく、自分のための壊れることのない「真実の愛」が今ここにあるということなのでしょう。 それに続くのが「Oh my baby, What you gonna do? In the reason, in the rain, Still support the revolution?(ベイビー、それでキミはどうするつもりなの? 正気に返って、雨の中で、まだ革命を支持するつもりかい?)」、これはもちろん自分自身に対しての問いかけ以外の何者でもありません。かつての自分は居眠りしていたも同じだから、reason(正気、理性)を取り戻した今、自分を取り巻く状況は雨の中のようにきびしいけれど、昔のようにまだ革命を支持し続けるのかい? と聞いているわけです。この曲でbabyは何ヶ所かに出てきますが、ここはグリーンの中の個人主義に堕落した人格が、理想的な人格の方を指して語りかけているものだと見ることが出来るでしょう。 それに対して曲はコーラス部分に移りますが、ここで先ほどの問いかけに対する「baby」の答えが聞こえてくるわけです。「I want it, I want it, I want that too, But baby But baby, it's up to you, To find out somethin' that you need to do(そうしたい、そうしたい、そうしたいけれど、でもそれは貴方次第、貴方がやる必要のある何かを見出すこと)」、このbabyは逆に理想的な人格から現在のグリーンに対して呼びかけているわけですが、突き詰めて言えばこの部分は自分に対して問いかけ、自分に対して答えている一場と言えると思います。まあ、人間何か迷うことや重要なことを考える時には心の中で自問自答するのはよくあることで、それをヴォーカルとコーラスの掛け合わせで表現しているわけですね。この手法はUMMなどでもラップとの掛け合わせで用いられたように、音楽的なものと歌詞の流れを合致させた表現方法でグリーンもよく使います。 そして彼自身が何をする必要があるのか見出すことが大切であるのは何故かといえば(Because...)、「I'm in love with a Jacques Derrida(ジャック・デリダ(つまりはその著書や思想)に恋している」からで、ここにaという冠詞が入っているのは、ジャック・デリダ的なもの、つまり彼の思想の本質に合致する事柄全般という意味が盛り込まれているからでしょう。 「Read a page and I know I need to take apart my baby's heart(ページを読めばぼくにはわかる、愛する者の心を引き裂く必要があることに)」、のbabyはもちろん理想的な人格のことです。つまりジャック・デリダの著書をきっかけとしてグリーンが持った新しい思想性は、今までの理想的な生き方の元となる自らの中の一部を引き裂くに等しいということです。(take apart には「分解する」という意味の他に「批判する」という意味もあるので、理想的な人格に対して批判的な立場に立たなければならないという含みもあるのかもしれません。) 次に「To err is to be human, To forgive is too divine, I was like an industry, Depressed and in decline(過ちは人の証、許しはあまりにも神に近く、ぼくは機械的な生産を繰り返し、不況と下降線)」、これは人間が間違いを起こすのは当たり前のことだが、それを許す、つまり西洋倫理哲学の戒律のひとつで他人の罪を許さなければいけないというヤツがあると思いますが、自分を押さえて他を許すという精神は人のわざと言うよりも神の領域に誓いということで、どうしても無理がある。それを繰り返してきた彼はもう今では産業(industry)が惰性で生産を続けて不況に見舞われるように、にっちもさっちもいかない状態にまで追い込まれてしまったということなのでしょう。そこでまた先ほどのコーラスを含んだ自問自答の掛け合わせが繰り返され、今はそれから逃れることに夢中になっている(I'm in love with just getting away)という一節に繋がります。 そこから今度はちょっと赴きが変わって過去について語る一節が出てきますが、「He held it like a cigarette behind the squadee's back, He held it so he hid its length, and so he hid its lack-oh, An' it seems so very sad, All right.(スクオッドの奥で彼はそれを煙草のように翳し、翳してその長さを隠し、それに欠けているものを隠し、ああ、それはとても悲しいことだね、まあいいさ)」、このHeが過去のグリーン自身について言っていると私が考えるのは、このit(それ)が、過去における彼の理想を指していると思えるからです。それにsquadee's backというのは彼自身のスクオッド時代、つまり仲間と暮らしながら理想を追いかけていた時代のことを思い起こしている表現ではないでしょうか。その時代の彼は理想的な人間像に欠けているものがあることを薄々感じながら、あえて見ないふりをきめこみ、それを支持していた(held)わけですが、それが今では悲しいことのように思われる(It seems so very sad)のでしょう。そしてこの節の最後にAll rightが入るのは、それでも今はちゃんと理性を取り戻して何をすべきかわかっているので、まあいいか、という過去との決別の一言なんじゃないかと思います。 そして最後の一節ですが、この部分全体の大意は「今ではすっかり切望に乗っ取られてしまっているので、与えられるものを全部食い尽くしても飽き足らず、まるごと食い尽くすまでおさまらない」という意味の言葉がずっと並びます。曰く、「I want better than you can give, but then I'll take whatever you got(キミが与えられる以上のものが欲しい、でもキミが持っているものならなんでももらうよ)」、「I want more than your living wage(キミの稼ぎじゃ間に合わないくらい欲しい)」、そして用いられている単語も rapacious(略奪を欲しいままにする、強欲な、飽くことを知らない)、satiate(いやというほど与える)、voracious(むさぼり食う、がつがつ食べる、飽くことを知らない)、assuage((食欲、欲望などを)満たす、満足させる)など、とにかく食い尽くすまで満足しないという表現に通じる言葉が並ぶのです。内的な衝動というものは貪欲な(飽くことを知らない)ものであり(desire is so voracious)、 I wanna eat your nation state(キミを丸ごと食いつくしてしまいたい)ほどだ、というのが結論です。こういう内容の歌詞だからこそグリーンはこの「Jacques Derrida」についてインタヴューで話が出たときに、「この曲は左翼主義も右翼主義も魅力的なものの前には引き裂かれ、切望のために不要なものになる」という事を歌った歌だと説明したのだと思います。けれども忘れてはならないのは、こうして一見、廃頽的な思想に堕落したかに見える作詞者が、実はそれによって更に本当の理想を追い続けているという事実です。偽善的な自己犠牲に基づく「愛」などではなく、真実の愛を追求すること、そしてそれによる深遠な意味での革命、それについては最後の一節で以下のように表現されています。 「I'm a grand libertine with the kinda demeanour to overthrow the lot(ぼくは夢を追う放蕩者、優しそうなふりをして全てを倒壊させるために) 」、このgrandにも一般的によく用いられる「雄大な、華々しい、壮大な、立派な」などの他にも実に様々な意味がありますが、その中に「きわめて野心的な、意欲にあふれた、希望に燃えた、理想の夢を追う」というものもあります。あとに続くlibertineという名詞が「道徳的に束縛されない人、放蕩者、放埓者」、他にも「(古代ローマで)奴隷から解放された者」などの意味があることから言って、おそらく作詞者の意図ではgrandにも「野心的」とか「理想を追う」といった含みの意味があると思えます。そしてそうやって実際は道徳的な束縛から解放されて理想を追ってはいてもdemeanour(ふるまい、顔つき)つまり外面はkinda(=kind)、何くわない様子で、実はthe lot ( lotにthe がつくと「全部、全て」という意味になります)をoverthrowする、つまり「何もかもを倒壊させる、ひっくり返す」チャンスを狙っている、という実情が盛り込まれているというわけですね。この通りのことが第1章でご紹介したBAM SALUTEでも語られていたのを覚えておられますか? ではこれらの解釈を元にして以下に「Jacques Derrida」の対訳を記しますが、実はこの中でイエローでマークした言葉は人名、俗語、若しくは造語であるために何を象徴するのか絶対的な意味を確定することが未だ出来ていません。訳はそのあたりを外して日本語にしてありますので、もしこれらの言葉の一般的な意味や、人名ならその人物の背景、または特にこの歌詞の中での象徴性についてお分かりの方がいらしたら是非ご一報下さい。また「Lions After Slumber」は訳すまでもなく上にも書いたように全編Myという所有格に続く簡単な名詞の羅列なので、あえて日本語にする必要はないと思います。歌詞はこちらにありますので、必要なら参考になさって下さい。 Jacques Derrida
というところで、この章はこのくらいにしておきたいと思います。
>> Study of the lyrics 第7章 Sorry, it'a coming soon!!
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2001.10.23-24.
2003.7.13.改稿