It's not easy being Green

The Guardian Newspaper - July  1999

Interview by Michael Bracewell

 

ザ・ガーディアン・ニューズペーパー - 1999年7月

インタヴュアー:ミカエル・ブレイスウェル

 

20年も前のことになるだろうか。NMEが先進的な評論の方法を構築し、若い連中は自らの苦悩や疎外感を歌った聞くに耐えないレコードを造るのに一生懸命だったような時代に、スクリッティ・ポリッティはスカンク・ブロック・ボローニア≠ネるシングルをリリースした。グループの名前もシングルのタイトルもモダンかつエキゾティックでヨーロッパ的な香りがしたが、曲そのものは燃え尽きようとするパンクという廃虚のラジカルな特性をそのままに受け継いだ、過激で錯綜した響きを持っていた。

スクリッティ・ポリッティはそもそもリーズでアートスクールの学生だったグリーン・ガートサイドのイマジネーションの産物であるが、その後間もなくこのグループは音楽誌においてパンクの後に来るポップ・ミュージックの可能性を予見させる革新性に満ちた存在として注目されるようになる。ともあれガートサイドにとっては奇抜なタイトルを持ったポストーパンクの作品を創ることは、もともと彼がアートスクールに愛想をつかして音楽に方向転換する原因ともなった、自身の何事をも疑ってかかる性質のせいと言ってよかった。

そしてこの猜疑心そのものは、レコードをリリースするたびに時には三年、五年、六年と長い休息期間を必要とする原因でもある。彼の経歴はその音楽シーンでの不在によって区切られるのだが、結果的にはそのたびに創作上の変貌がもたらされることになるようだ。キューピッド&サイケ85でまぎれもないポップ・ミュージックを以って、世界的なヒットを飛ばし続けた後、1988年に極めて魅力的なプロビジョンを発表するまでガートサイドは創作活動から身を引いている。さてその後はと言えば、生まれた南ウェールズに引きこもり、長い隠者生活を経てようやくスクリッティ・ポリッティを再編、新しいアルバムであるアノミー&ボノミーを制作することになった。

ポップ・ミュージックの美しいハーモニーとハードなヒップホップが見事に融合したこの作品は、今回もまた時代の雰囲気にはまったアルバムとなったようだ。とは言うものの、いかに評論家がこぞって絶賛しようと待ち構えていようが、マイルス・デイヴィスやマドンナといった一流どころにカヴァーされようが、ガートサイド自身は未だに猜疑心の強いリーズの学生時代と全く変っていない。そしてブライアン・ウィルソンやビーチボーイズの如き軽快かつ変化に富んだポップ・ミュージックを創り上げることで、自らの創造性に対する不安を鎮めようとしているように見える。また彼は恐ろしいくらい芸術における論理的かつ政治的哲学について理路整然と語ることのできる人物でもある。まあフィル・スペクターがローランド・バースのような人格を持ち得たと仮定してみたまえ。

「アートスクールにいた頃はね、ぼくは基本的には自分で決めたカリキュラムに従って勉強してたんだ。どうしてかと言うと、学校では誰一人としてなぜ芸術について学ぶのか、とか、それが何か意味のあることなのか、とかいったようなことに興味を持つような奴がいなかったからさ。...そもそもぼくはその頃パフォーマンス・アートに関して評判が高かったからこそリーズに行くことにしたんだよ。で、初めて学校に行ってみると丁度学祭みたいのをやっててね、こっちの部屋では吐くまでものを食べてる奴がいるかと思えば、あっちではインコかなんかを的にしてる奴がいる。で、ぼくは思ったね。こりゃ、すごいや。何かものすごいことを考えているから、こんなことができるんだな≠チてさ。つまりインコを的にして射るとか気分が悪くなるまで食べるなんてことをするまでには、いかばかり深遠な考察を経てきていらっしゃるのだろうか、ってな具合に思ったわけ。ところが、だよ。残念ながら大いに的がはずれてたんだ。後になって聞いてみると要するに何にも考えてなかったの。おふざけと変わりがないんだ。で、結局そんなのは単なる時間の無駄、ってぼくは結論した」

かくしてリーズを去ったガートサイドは、カムデンのスクオットに移り住むことになる。そしてスクリッティ・ポリッティはラフ・トレードからデヴュー・アルバムであるソングス トゥー リメンバーをリリースした。

しかしその後ブライトンでギャング オブ フォアと共演したコンサートの間に緊張から来る恐慌状態に陥り、彼は永遠にライブはやるまいと誓って、最初の休息期間に入ることになった。
このアーティストとしての分岐点において、彼は初期スクリッティのラジカルで何をも寄せ付けないムードの音楽から、ブラックミュージックのパワーと可能性に目覚めた新たなスクリッティ・サウンドへのインスピレーションを得ることになったようだ。そして盟友であるデヴィッド・ギャムソンとの-アノミー&ボノミーのプロデューサーでもあるが-深く、長いつきあいもこの頃始まる。

何らかの形で成功や名声の頂点に立つたびに引きこもることになるのはこれが最初だが、その後パターン化することになってしまった。

「こんなに幸運に恵まれてるっていうのに、つまんないことでぶつぶつ文句を言ってるのに気がつくと、自分でもイヤになるよ。でも仕事の実績を積むという点ではぼくはまちがったことばかりしてるな。ライブをやらないとか、長いことシーンから消えるとか。自分のやってることに嫌気がさすっていうのは時々あることなんだけど...。まあ、こうやってまた戻ってきてしまったのは、おかしな話だけど、やめてしまうとどれほど音楽を創ることが好きかに気がつくんだよ。で、どうしようもなくなって、最後には舞い戻ってきてしまう、というわけ」

ポップ界においてプロとしてやっていくことについての彼の嫌悪感は、ライヴをやらないためにプロモーションに対する要求が残酷なくらい容赦ないということからも更に強められることになる。
初期スクリッティのラジカルなムードから商業的成功を可能にしたキューピッド&サイケ85の知的ポップ・ミュージックへの移行に伴って、グループはアメリカの地方テレビ局での昼番組に出演するために際限なく駆け回らなくてはならない羽目に陥った。

「朝、目が覚めるでしょう。そうするといきなりポートランドなんだよ。クリーム色のソファに掛けていて、目の前にはメイクアップした司会者が二人いる。オーディエンスときたら年金受給者と思しき人達で..。ここはぼくのレコードについて話すには全く相応しくない、絶対に明々白々とぼくは間違ったことをしてる。アメリカン・バンドスタンドという番組をやってた時だった。がっくりくるような間の抜けた質問を受けていて、いつでもなにかと疑問に思ったり自問自答したりしているぼくの中の小さな声がますます大きくなってくるんだ。挙句の果てにはすさまじい叫喚になって訴えてくる。おまえ、こんなとこでいったい何やってるんだ?!  ...ポップ界の現実に巻き込まれていることに気がついた時には、そこでぼくにとって大事な物なんて何もなかったんだ」

ガートサイドの音楽に対するアプローチの根底にある知性偏重とも言える側面は、いつでも十分な遊び心の中に安住していて、だからこそ真面目過ぎずに済んでいるのだ。また、作詞者としての彼のオリジナリティはすばらしいもので、それは高度に複雑なコンセプトを軽快な押韻形式と良く出来た言葉遊びを通じて曲の中にすべりこませることを可能にしている。実際、文化的に上下の区別がなくなった80年代を象徴するような1982年のジャック・デリダという曲-フランスの哲学者に献呈された作品である-を愛するポップファンは未だ存在しているのである。

「デリダ氏がとうとうぼくの献呈した曲を聞いて、というのは彼に師事している人が送ったらしいんだけど、じゃあパリで食事でも一緒にしましょうか、って話になったんだ。ところがとんでもないことにフランスのBBCみたいなとこにかぎつけられちゃって、マイクを押し付けてくる連中をおしのけながら会話をつなごうと努力する羽目に、.....なんてのは言い方が生易しいかもしれないな。ともあれそれでもぼくはなんとか彼に聞くことができた。どうして音楽について今まで書かなかったんですか≠チてね。そうすると彼は、思うに典型的なデリダ口調でこう答えてくれたんだ。私の本はどれも究極的に音楽的であるよう勤めているんだよ=v

そして、こうしたことすべてにもかかわらず、スクリッティの音楽はめったに悪賢くも風刺的にもならない。アノミー&ボノミーでの新曲からもわかるように、ガートサイドはポップ・ミュージックをまるで光彩を放つ素材ででもあるかのように自在に扱うことができる。そしてそこから凝った、すばらしい作品が生まれるのだ。とりわけ-アートスクール時代の用語を用いることで-LPの中の曲は、彼の息を呑むようなヴォーカル・スタイルとモス・デフのハードなラップが見事にまとまっていることにも助けられて、触れることが出来るくらいのリアリティを伝えてくるのである。

「この新譜はね、全く軽い感じでころころ雰囲気を変えるんだよ」とガートサイドは言う。「構造上の形式についてくだらない形而上学的考察を持ち込むことをせずに、いくつもの形式が横並びになっているんだ。まあいくつも違った色がのっかったアイスクリームみたいなもんだね」

彼の言う意味は、アルバムを一聴すれば、すっかり理解できることだろう。