The Word Boy

Blitz magazine - June 1985

Interview by Paul Mathur

 

簡単な概略

スクリッティ・ポリッティ。意味はイタリア語で「政治文書」、またはある政治的な音楽グループを指す。それとも、我々のスクリッティは単に出来の良いポップ・レコードを作っているだけ、と言う人もあるだろう。本当のところは、まあ、その辺りのどこか中間にあるはずだ。

スクリッティ・ポリッティはセント・バンクラス・レコードを冠した扇動的な政治色の強いグループから優しく耳ざわりの良いポップに移行しつつある。往々にしてダラ―的であるとは言えないけれども、常にデュラン以上ではあるだろう。どちらにしても魅力的なのは確かだ。何枚かのシングルとソングス・トゥ・リメンバーというアルバムによって、甘く感傷的なホワイト・ポップを披露し、数回に渡るアメリカ行きの成果として、3枚の更なるシングルを発表、ニューヨークから復活を果たした。お堅くない健全さ、そして新しいLP...

 

弱冠の詳細

グリーン・ストロメイヤー・ガートサイド。ウエールズとドイツの血が混じったイギリス人である。8才の頃から音楽誌の熱心な読者で、お定まりのコースを辿って現在に至る。迷路のような精神性と絹のような声の持ち主。新しいLPのシンガーであり、クリエイターでもある。

 

"キュービッド&サイケ'85"とスマートに名付けられた新しいLPは、最近の3枚のシングル、つまりスクリッティのリメイクによる"スモール・トーク(もとは彼らがナイル・ロジャースと録音したもの)"、最も最近に発表されたレゲエ調の"ザ・ワード・ガール"、そしてこれまで彼らが作った中で一番美しいバラードである"ア・リトル・ノウリッジ"を含む9曲が収録されている。

 

危ないお話

グリーンと一時間半も話をしていると、夥しい数のコトバが流れて出してくる。長いのをいくつか並べておくので、あとはそちらで適当にやってもらいたい。

★なんでこんなに時間がかかったの?

「いろいろとね。いっぺんに録音したわけじゃなかったし。アリフ・マーディンと3曲やったんだけど、ぼくらは ― ぼくらというのは、ぼくとフレッド・メイハー、それにデヴィッド・ギャムソンのことなんだけど、今スクリッティのメンバーはこの3人なんだ ― 自分たちでプロデュースに挑戦してみたくなった。もちろん物凄く時間がかかることになったけど、今じゃみんな、ぼくらの仕事はそういうものだって予期してるしね。」

★ またチャート争いに参加することになりますが?

「大丈夫だと思うよ。批評的な待遇については明らかに為すすべがあるわけじゃないけど、このレコードはそういうのとは、ちょっと一致しない所に存在していると思う。ポップ・チャートというのは確かに批評的待遇そのものだけど、このレコードはその範疇にないというか。ポップ・チャートそのものが最近では2、3年前とずいぶん様相を異にしているし、いくらか沈滞気味だしね。ダラーが好きでコルトレーンも好きってことが言えるような、プロ的折衷主義をもってしても、このごろは意味を見出せなくなってるよ。今、刺激性が欠落していることについての唯一の問題は、ある種の確信だと思うし、ぼくらはそれを持っているからね。」

★以前のスクリッティは往々にしてすばらしい点を持ちながら、その外縁をなす全く純粋なヴィジョンが実際のインパクトを妨げていたことが主な問題だった。彼らのオーディエンスは、もし既に変わっていないとするならだが、既にバンドが言わんとしていることについて知っている人たちばかりだった。しかしポップ・キッズというものはスターにこそ熱狂するものであって、グリーンの取る足りない騒ぎになど少しも注意を払ったりはしないのだ。そしてスクリッティは今その慌ただしいポップ界に居を移したわけだが、そこから何か効用を期待できるものなのだろうか?

「ぽくらがやってきたことのマージナリティ(辺境性、局地性)が具体化されてきて、ぼくらは「代案」に落ち着いたというのは確かなんだけど、でもそれは決して「代案」程度のものじゃないんだ。要するにそういう局地的な環境から脱して、そうすることで物事を始めようとしているわけだけど、その結果としてのポップへの移行であるということだよ。純粋性ってことを言えば、この言葉をぼくは使いたくないんだけど、それは純粋ではないものを仄めかしているからなんだ。どちらかと言えば、今のぼくにアピールするのは「純粋ではない」ものの方だしね。グループとしての目的の意図的な見通しの点で、このポップへの移行はぼくが自由にさせておこうとしているポップの感傷性を単に素直に容認したに過ぎないことなんだ。」

「おかしな話なんだけど、ぼくは物事を複雑にするというよりはシンプルにしようとしている。"完全"という見せ掛けに惑わされず、異質性だとか異なった要素だとかを先入観なく受け入れなければならないってことなんだよ。」

★ スクリッティのポップへの移行は、妙な時期に起こっている。それはポップに関する新しい認識がNMEや他の大人向けの雑誌に任されていた時期だった。またスマッシュヒッツやNO.1.がポップを消費する側に直接アピールするばかりではなく、選別した上で中身の何も無い一連の偶像をでっち上げる前でもあったのだ。今やその脅威は蔓延しつつある。例えばザ・ジーザス・アンド・メリー・チェーンが「衝撃的大激論グループ」としてヘッドラインを飾る横に、ワム! のような、おキレイな坊ちゃんバンドが並んでいる。どれもこれも突出したもののない平凡さで、重要性などどこにもないのだ。おそらく1985年のスクリッティは、この中でそう簡単にブレイク出来ないのではないだろうか。

「さあね。そういうプレスの状況は結局、今の音楽業界が落ち込んでいる停滞のせいなんだよ。要するに誰が一番かってことを言い立てることに意味があるわけで、それは全くムリもない話だ。ともあれぼくはそういった今起こっているアンチ・ポップ騒ぎが意味を為す必要はないと思っているしね。アンチ・ポップって、何? 誰に対するアンチ・ポップなの? それってどこに向かってるんだろう。ザ・ジーザス・アンド・メリー・チェーンは確かに大して面白いグループでもないよ。要するにポップを動かし続けるためには物事をリサイクルし続ける必要があるってことさ。」

「ああいう雑誌は新参者をのけ者にしたりしない。実際あまりにも性急に取り入れて、あっさりお払い箱にするってだけで。ぼくはイギリス的な、ポップを幅の狭いものにしようとする風習については快く思っていないし、はっきり言って凄くイヤなものを感じている。ポップ・ミュージックっていうのはね、明らかにレコードの売れる数そのものに大きな意味があるんだよ。そしてその重要性は同時に、歴史的に見て何か一つの"パワー"よりはむしろ、いくつもの違ったタイプの音楽の間にこそ存在しているものなんだ。」

★ ということは、貴方はスクリッティを歴史的な脈絡の上で見ているということ?

「スクリッティは奇妙な存在だと思うけど、そもそもパンクっていうあの風変わりな現象なくしては生まれ得なかったものでもあるよ。あれは、そんなことでもなければ自分の回りで何が起こっているか気付きもしないような連中にまで、それについて考えさせたんだからね。その特異な美意識や政治的関心、そういったものが必然的にぼくらをも特異な存在にしていたんだ思う。」

★ パンクは何事かを為さしめたでしょうか?

「そうは思わないね。ありがちなんだけどイマジネーションが欠落していたせいで暗礁に乗り上げて結局は閉鎖的になってしまったんだから。でも背景にあったパワーそのものは必要だったよ。」

「要するにその目的性の無さにぼくは嫌気がさしてポップに魅力を感じるようになったんだけど、中でもブラック・ポップ・ミュージックだね。ぼくはひどく健康を害していた上、うんざりしていたし、ブリティッシュ・ロックそのものが行き場をなくしているように思えていた。それでその世界から去って、それまで聴いたことがなかったようなものを聴くようになったんだけど、それがブラック・ポップだったというわけさ。シックやジャクソンズにはハマってたもんだけど、シャーリー・ブラウンやザ・ステイプルズ・シンガーズを聴くのは素敵な体験だった。NME読者で長いことそういうものを聴いたことがないっていうことは在り得ないと思うかもしれないけど、でも事実そうだったんだよ。ホントに聴いたことがなかったんだ。」

★ どういうレベルでブラック・ポップの重要性を把握していると思いますか?

「基本的には殆ど本能的に受け入れたと言えるんじゃないかな。同時にぼくは自分のコンセプトを仕掛けとして仕込む気にもなったから、パンクからこっちのブリティッシュ・ロックみたいに度の超えた、しかも飾りすぎの表現より重要性が感じられたし、より適切かつ実用的でパワフルだと思ったんだよ。」

★ 病後、快方に向かう中で、リズムをテーマに論文を書いたり、ある種の信念を失ったことについて認めたりしていたわけですよね。どうして?

「歴史科学の可能性に対して信念を失ったんだよ。もともと人道主義的政治性を快く受け入れていたわけではないし、それって本質的にはっきりしないしね。マルキシズムは歴史科学の認識を通して唯物論的観点からの現在に対する理解を提供しているように思えたんだけど、それは地図の上に幾つか印をつけてそれを結び、物事がどう進んでゆくのか確信が持てる道を示すようなものだろ。でも沢山の本を読んでいくとね、過去というものが歴史の精査に対して役に立つ事柄を提供し得るとは思えなくなったんだ。ぼくは歴史を個人的な観点から見るようになり、無意識が生成するものについて考えるようになった。そこでぼくは抽象画の属性が趣旨(その言わんとするところ)にあるという点に興味を持っていたアート・カレッジ時代にお馴染みだった言語に再帰したというわけなんだ。」

★ 行き過ぎだとは思いません?

「そんなことないよ。だって、そうやって本を読んでいる間にポップ・ミュージックを作るという仕事が重要な意味を為すということに閃き至ったんだからね。ポップのリズムによる主張、言語の遮蔽、セクシュアリティ、その独自性を提示し、かつ同時に無効化するそのやり方、そしてそれら様々な方法を用いてあらゆる哲学的関心に収瞼してゆくという方法論。」

「たぶん中でも一番良いことはね、ポップは分析や解説を全く寄せ付けないという点じゃないかな。しかも実に鮮やかにやってのけるんだ!」

★ こうしたポップの明らかに分析不可な関心事との取り組みが、我々にスクリッティの最高潮をもたらしてくれる。ポップの核となるポイント ― girls、love、heroes(少女、愛、英雄) ― これらは今までにない自意識と並立させられており、スイーテスト・ガールは自らを疑問符の中に見出し、キャンディのように甘い海で記号化されている。それは危険でありながら非常に魅力的でもあるだろう。同様にしてアレサの祈りは皮肉で宗教まがいのR&B的隠喩に作り変えられ、同時に最高のダンス・ソングにおけるインスピレーションともなっているのである。最近のシングル、"ザ・ワード・ガール"も明らかにポップの世界でバラまかれている言葉としての"Girl"について歌ったものだ。これもまたヒットしているが、スクリッティ・ポリッティが今や明らかに昔のようなバース風の、単なるお利口さんポーズを気取っているのでないことは確かだろう。

「全く単純な旗のようなものだけど、でも要するに単なるタイトルだからね。スクリッティはポップがそういったことを表現し得るということを知っているということについて表現しているんだ。それは生意気な自惚れとは全く違ったもので、第一ぼくはそれに通じているなんてフリはとても出来ない。今だって十分に驚いているし、楽しんでいるし、利用してやろうとも思っているんだから。」

★ ソングス・トゥー・リメンバーにあるジャック・デリダのような曲は"アンポップ"と言えるポーズだと思いますが、そうしたもともとの性質に反してポップ世界に入ることに困難はありませんでしたか?

「至極スムースに入れたよ。ポップソングを書くってことは、ぼくにとって安堵感を伴うものだったからね。少なくとも楽しみではあったな。デリダについて言及するような要素が本質的にぼくから無くなったわけじゃないけど、特にそれを意識しているというのでもなかったしね。」

★ スクリッテイの発展については?

「得たものは在ると思うよ。最近じゃ大西洋を越えたユニットなんだし、それから生じる混乱というのはあるだろうけどね。今までと全然違う人たちと全然違うやり方で仕事することは、自分の中の最も個人的な関心事を犠牲にしなきゃならなくなることも認めざるを得ない。でもそういう降参は悪くないものなんだ。アリフ・マーディンやデヴィッド、フレッドとパワーステーションに入って、確かにみんなぼくの風変わりで途方もない表現を含んだ音楽を一緒にやってくれてるんだけど、それでもみんなをぼくに取り込んでしまえるなんて期待はできるもんじゃないからね。」

★ ここのところ純粋性が失われすぎて来た感じはしない?

「そんなことないよ。単にブラック・ポップ・ミュージックが魅力的だというだけで、イギリスで現在進行しつつある状況に嫌気がさしたことが、ぼくをアメリカに行かせたんだしさ。ぼくのやりたいことのために、そこでの形や方法論を利用するためだったんだよ。」

★ 主に作品のインスピレートョンとなっているのは何でしょうか。不寛容、それとも愛?

「ここ2年くらいは明らかにある種の音楽表現やアプローチに対する執着心だったんだけど、最近ますますそれじゃ満足できなくなって来ていてね。これからは他のやり方を試していくことになるんじゃないかな。」

★ 例えばどんな?

「今のところ分からないな。ただ、そろそろぼくが政治的に為し得ることを表明していく時期なんじゃないかとは思うよ。LPが政治的にインスバイアされうるものであって欲しかったし、政治的な次元を保てるように努力もして来たんだからね。」

★ 以前、どんなに貴方がポップな曲を書いているように見えても、そこには常に変転、堕落、創出といったものが盛り込まれていると言ってましたよね。(訳注 : 変転、堕落、創出 = 概念変換、道徳的堕落、今までと違った(価値の)創出、考案、これは作品に盛り込まれている哲学性から本質的にこのような意味と考えられるが、訳部分は原文に合わせて簡略化した。)

「今だって変わってないよ。どんなにポップらしくても、どんなに率直無比に見えても、基本的にはぼくが最も親しんでいるのは言葉だし、それはぼくの意識から来る言葉なんだ。歌詞を書く時にはね、そこに生まれて来る言葉は他の人の意識の中にあるような「ポップ」から連想される何者かから来るものではなくて、むしろ政治的論理から来るものなんだよ。ぼくの言ってることが分かるかな。そういうレベルであってさえ、ぼくの書く滑稽詩は政治性を含んだ滑稽詩なんだってことだよ。」

★ 貴方のアプローチは、例えばZTTなどと比べてどういうものなんでしょう。

「ZTTはあまりうまくやってるとは言えないと思うな。ポール・モーレイに時間を割いたことはあるけど、基本的にはあれは混乱だと思うよ。誤解しないで欲しいんだけど、ぼくは混乱そのものはキライじゃない。でもあれはダイナミズムの欠落した混乱なんだ。」

★ パッケージングについてはどう思いますか。

「ぼくから見ればバカげてるという感じがするね。ポールは自分でも十分に理解していないことを弄んでるだけだよ。まあそれはそれでいいんだけどね、だって多分ぼくもキミも同じようなことをやってるんだから。でも彼のは物事の意義から著しく掛け離れつつあると思う。」

★ 現在のポップを取巻く環境において、彼のやっていることは適当でしょうか。

「さあ、ぼくは彼が何を目標にしているのか十分には知らないからね。フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドには何か感じさせるものがあるけど、でも興味深いのは曲が生み出されてくるコンディションなんだ。トレバー・ホーンとフランキーの関わり方とか。で、それはああいう連中が一つのグループでやってるってことの歴史的アクシデントと関係があると思うわけ。その方がZTTなんかより、よっぽと面白いと思うよ。」

「自意識は確かにあるけど、もともとユーモアに対する平衡感覚ってものがない。やり過ぎではあるけど、十分にパワーがあるわけではないし、たいていの場合は十分な大衆性も悪さも政治性もなくて、結局ちょっとくどい上に焦点がズレてしまってるんだ。」

★ ご自分のレコードのパッケージングについての満足度はどのくらいですか?

「え、ああ、そりゃ良く出来てると思ってるよ。」

★ ジャケットのモチーフは徐々に変化してきましたよね。

「うん。以前のはダンヒルやクールボアジェ、それにディオールなんかの流用だったんだけど、今度のはいくらかパーソナルなものになって、少し焦点も違って来てるよ。ああいう流用はずっと直接的だしね。」

★スクリッティに関する理解は過去に何をやって来たかということを知っているかどうかにかかっていますか。

「全然。新しいアルバムは、みんなに楽しんでもらいたいってことが殆どだ。音楽を創ることは愉快だし、音楽を楽しむということも同様に愉快だよね。この愉快な(Pleasurable)という言葉は、特に大文字のPで始めたいんだけど、そうするとそれには同じくらい居心地の悪さや、不快感、チャレンジといったものまで含めることが出来る。ある程度まで感動をもたらすもの、楽しいものであって欲しいけど、望むらくは同時にポップ・ミュージックには別な側面もあるという理解をもたらしうるものであっても欲しいけれどね。」

★ 一年ほど前、しばらくの間プレイ・ライク・アレサ・フランクリン、アブソルート、ヒプノタイズの3曲がチャートを席巻したことで、グリーンは誰もがそうなると思っていながら今までは実現しなかった、高く評価されるポップスターと認められるようになった。ステロタイプな見栄えの良くないロッカーから、ダイアナ妃似のポップスターに変じ、ジャッキーの読者でさえ壁にポスターを貼りたがるような存在になったのだ。くだらなくて儚いポップスターであることに、人はどのくらい満足できるものなんでしょうね?

「特にそれで満足してたわけじゃなかったけど、今までいつも矛盾したポジションにいたからね。考えてみなかったとも思わないけど、そんなにはっきり確信していたわけじゃないし。わかるかな。つまりああいう状況に囲い込まれていたわけじゃないし、それで何か誠実さが損なわれると思っていたわけでもないんだ。要するに(ポップスターであることで)ぼくが何者であり、何を関心事とし、そこで何をしているかということから完全に離れてしまうと思っていたわけじゃないということだよ。」

★ これからのスクリッティについては?

「全く分からないね。次のアルバムがどのくらい受け入れられるかということもあるし、それに...。変化させたいと思ってはいるんだけど、それがどのくらい、どういう方向に向けてかということになるとまだはっきりしないな。最近はずいぶん自分の政治的関心をなおざりにして来てもいるし。新しく言いたいことも、そのための新しい方法や、ぼくがやりたいことを表現する新しいやり方だってあるわけだしね。これで分かってもらえたかな?」

★アルコールと熱狂の日々から、なんとたやすくグリーンは単なるWORD BOYになりおおせたことか。実際よく気付く人もいるように、彼は一語で十分なところを十語費やすのに喜びを感じるらしい。けれども彼の波長にひとたび合ったとしたら、彼がインスピレーションに富んでいるということを知るのはさほど難しいことではないだろう。その言葉や足跡に疑問を抱くことがあったら、LPを聴いてみればいい。それは何よりも全てを語っているはずだ。そしてその一事だけで、グリーンには十分に満足する理由があるのである。

2002.8.4.- 2002.8.8.