このコーナーはしゃーると私の日常をフリー・トークでお届けします。

ぼくはおひさまのくるま その1

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★★運命の出会い篇★★

 

あれは確か8〜9年前のある日、お仕事から帰ってくると郵便受けに一冊の無料タウン誌が投げ込まれていた。

なんの気なしにパラパラとめくっていると、おおっ。

そこには神戸の街を背景に、見るからにみーはーで、お気楽なムードのオープンカーが特集されているではないか。それがあの、真赤なユーノス・ロードスターであったのだ。それが私とウチの相棒との正真正銘の出会いである。

始めはユーノスという名前のせいですっかり外車だと思って「どーせ高いのに決まってる〜」と、まさか自分が後日オーナーになるなどとは考えてもみなかった。ましてやその頃私は免許さえ持っていなかったのだ。もともとクルマは3度のご飯と同じくらい好きだが、運動神経が不自由な私である。免許なんか持ったら絶対アブナイ、と、あえて取らずにいた。しかしその後いろいろと状況が変わり、やっぱりクルマがあると便利よねーっ、と思い、じゃあ何を買おうか、というお話になっていく。この場合、免許を取るための苦労があるであろうことは、すでに新車に乗った自分の姿を思い浮かべて舞い上がっているお気楽娘の頭の中には、ない。

そもそもは一般に日本のクルマが好きではない方なので、やはり始めの候補は「ジャガー」が上がった。しかし、どーせ高い車を買うのなら、とユーノスもちらっと頭の中には浮かんでいなくもない。そうこうするうちに本屋さんで立ち読みした「こんなクルマを買いなさい」という本の中でロードスターがマツダのクルマであることを知る。ええええええーーーーーっ、あれって外車じゃなかったのぉぉぉっ?!

おそらくこの一瞬で、ジャガーは私の未来の愛車の地位から確実にころがり落ちていた、と思う。

なにしろマツダさんは私が唯一大好きな日本の自動車メーカーなのである。なぜか。

かつてご幼少のみぎり、私は道行くかのサバンナRX-7にひたすら憧れていたのだ。それも例のあの頃はめずらしかったリトラクタブル・ヘッドランプ、あれはもう、ひたすらカッコよさの象徴だった。あれでマツダの名前を覚えたんです、私。カッコいいなー、乗るんだったらあんなのがいいなー、とナマイキな子供だった私はよく思ったものでした。

ともあれ、その上にロードスターは標準的なジャガーの5分の1以下の値段だという。もちろん維持費その他の面で現実的なのはロードスターの方だったが、しかし私は自分が本当に好きなら何であれ万難を排して手に入れる奴なのである。そのためなら人の2倍、3倍働いてもなんてことはない。もし価格の面からだけ考えていたとしたら、最終的にロードスター・オーナーにはならなかっただろう。しかし何よりもロードスターというクルマがすごいのは、ジャガー相手に「やっぱりこっちの方がいいぜっ」と思わせてしまうところなのだ。かつてロードスターはロータス・エランによく似ているという声があった。しかしその後エランはモデル・チェンジを余儀なくされたという経緯がある。その要因のひとつはロードスターのような本マジよくできた車が、あの価格、つまりエランの何分の一かで手に入るという事実だったとも言われているくらいなのだ。つまりロードスターは本来ならエランを購入可能な購買層にまで「こっちにしよ」と思わせてしまったことになる。わたしがジャガーを蹴ったのも無理からないことだったと言えるだろう。

しかし、なぜそんなことがロードスターには出来たのか。

それは初代ユーノス・ロードスターが工業製品ではなく美術品だからだと少なくとも私は思っている。美術品、つまりART、作品の範疇にあるものと、たとえ高級車といえども工業製品の範疇にあるものとは根本的に本質が違うのだ。創ったひとたちの夢や思い入れ、そのスピリッツが生きていなかったら作品とは言えない。いかによく出来た工業製品であっても、製品である限り、人を驚かせることは出来ても感動させることはできない。ロードスターはかつてMOMA(ニューヨーク近代美術館)に展示され、一説には収納されているとも言われるが、それも当然のことと言えるだろう。ロードスターは伝統的なオープン・ツーシーターのスタイルを踏襲しながら根本的に亜流でも真似でもない。ユーノス・ロードスターはユーノス・ロードスターであって、他のどんなクルマとも似ていない。それがロードスターのロードスターたるカッコよさなのだ。そしてその根源にはやはり世界で唯一ロータリー・エンジンを現実のものとしたマツダのスピリッツがあると思う。

さて、そんなわけで私は「わたしのロードスター」をユメみて教習所通いをすることとなった。

先ほども申し上げたが、私は運動神経が不自由である。つまりほんとーおぉぉぉ、に、マがぬけていてニブいのだ。この教習所通いというシロモノがいかばかりであったか、賢明な読者諸兄には語らずともご想像頂けるにちがいない。つゆどきに入学願書を出し、秋も深まり冬の声が聞こえる頃になって....、苦節半年、やっと卒業検定にうかるころには、すっかり街はクリスマスになだれ込む様相を呈していた。しかしウカると一言で言うが、それまでの苦労はナミたいていのことではなかった。教習所の先生には苛められ(ニブいからよっ、どーせ私は運動神経が不自由よっ)、仮免試験には2回おっこち、3回目おちたらもうヤメよう、ああ、あのカワイイくるまで街を走りたかったな...、と、しくしく補習教習を受けたこともあった。もうたいていこのへんになってくると、フツーあきらめるかもしんない。でも、がんばった。おかげで3回目に奇跡的に最低の成績で仮免試験をパスしたが、しかしそこからがまた長いみちのりだった。なかなか4段階を終了させてもらえず、卒検もやはり最低ギリギリのところで、正味おなさけで卒業させてもらった。しかしそれだけに翌年1月のバースディに学科試験を受けに行き、免許を手にした時はホントにうれしかったなっ。これではれて「わたしのロードスター」と街を走れるのだーーー。(ロードスターに初心車マークつけて、ってか?!今から思えば神をも恐れぬ所業だったかも....。でもジャガーよりはマシ?)

でも、免許とったからって、運転うまくなったわけじゃないのよねー。実はこれはかつてヒトに話して大笑いされた話だが、私は教習所を卒業しても、ゆわえる「減速チェンジ」というやつが出来なかった。えーと、オートマ限定じゃなくてミッションだからね。減速したときにギアをおとさないといけないわけだけど、今でこそ「減速チェンジは加速のためにやる」と理解しているが、教習所では誰もそれを教えてくれなかった。したがって、なんで速度を落としたときにギアをおとすのか、も理解できてなくて、しかも3速から2速へのチェンジはめんどい。で、その結果、私は初めて「わたしのロードスター」とお出かけした時、始めから終わりまで2速以上に上げなかった。いや、上げれなかった。よくあれでクルマにケガさせず帰ってこれたもんだ、と不思議で仕方がないが、エンジンをゴーゴー言わせながら走っていたのにちがいない。まあ40キロ以上出してなかったから無事だったんだな、きっと。...いまとなっては笑い話だが...。(笑ってごまかすしかない)

ところで私が選んだのは、というよりもロードスター買うならこれ、と決めていたのはVスペシャルだった。グリーンで内装がタンのやつね。実は例の投げ込まれてたタウン誌には特集で神戸を遊ぶ可愛いオープン・ツーシーターってことで赤が出てたんだけど、その最後のページにちょこっと発売されたばかりのVスペシャルが、それもオープンにしてななめ後ろのアングルから撮ったいちばんカッコいい写真がのってたのー。もー、ひと目ぼれよー。これしかないよー。今にいたるもこのアングルから愛車を眺めると、あまりの美しさに言葉さえなくなります。

命名はしゃーる。これは某人気漫画の主人公の名前ですが、覚えてらっしゃるでしょうか。ほんとはカタカナでシャールですが、ウチの子は、なんとなくひらがなのイメージなので、いつのまにかこう表記するようになりました。ロードスターのカッコいいけどカワイイ、という所が、あまりにもそっくりだったので、他に思いつかずそう呼んでます。

さて、こうして私とロードスターの「一緒のくらし」が始まったわけだが、まもなく悲劇はやって来た。

その悲劇とは?!

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>>その3 きみといつまでも篇

>>おまけ対談

*** しゃーるとあやぼー、会話できたらこんなふー、かも。***