カトリーヌから話を聞いてデュアンが喜んだのなんの、その様子ときては実の父との初の対面と言うより、殆ど大好きなスターにお目通りがかなう長年のファンの図と言いたいような舞い上がりぶりだった。確かにデュアンに限らずディのファンというのは、一般に画家に対するものとしては珍しいくらいこの種の熱愛者が多いが、この子もその例に漏れず、明らかに信者、崇拝者の類と言っていい。
何日も前から何を着ていこうと悩みまくっていたデュアンは朝から大騒ぎを繰り広げ、結局時間ギリギリになってから、作ってもらったばかりの白の上下
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この年頃の男の子のスーツだから、半スボンにウエスト丈のジャケット
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に大きなボウ付きのシャツを合わせて、クツもおそろいの白いブーツということにやっと決めた。午後のお茶を一緒にできる時間ということで2時過ぎにディの屋敷でという約束になっていたのに、カトリーヌがデュアンをせきたてて愛車のシトロエンに乗り込む頃には既に1時を回っているような有様だった。
一方ディの方だが、こいつに限って実の息子が訪ねて来るなんて程度のことで動揺するわけもなく、前の晩にスケジュール表を見てあっそうそうと思い出し、執事のアーネストに来客のための用意をするよう告げていた。
「忘れてたけど、明日ね、午後に大事な客があるんだよ」
「はい。それでは、おもてなしはどのように?」
「午後のお茶を一緒にする予定だから、とりあえずそれと、もしかしたらディナーもということになるかもしれないんで、一応そのつもりでいてくれるかな」
「かしこまりました」
「まだ小さな男の子だから、マーサに言って腕をふるってもらって欲しいな。とびきり自慢のお菓子を用意するようにって」
「珍しいですね。どちらかのご子息でもお招きになりましたか?」
「うん、ぼくの」
「は?」
アーネストは言われたことの意味を理解しかねて首を傾げた。
「だから、ぼくのだよ」
「.....」
彼の主がまた新しい冗談でも思いついたのか、それとも本気なのか判断しかねて、アーネストは珍しく言葉を失っている。その様子を可笑しそうに眺めながら、ディは繰り返した。
「ぼくの息子が訪ねてくるんだよ。言ってなかったけど、その子の他にもう二人ほどいるんだよね、外に」
「だんなさま」
「ん?」
「おからかいになっては困ります」
「からかってなんていないよ」
「それでは本当に、だんなさまの?」
「そう」
「三人も?」
アーネストにしては珍しいことだったが、どうしても聞き返さずにはいられなかったようだ。
「そういうこと。でも、お父さんには内緒だよ。うるさいからね」
彼の父であるシャンタン伯は、もうずっと以前からモルガーナ家のみならず、シャンタン家の跡取りのことでも頭を痛めている。そのことをよく知っているアーネストには、確かにこれがバレたらどういうことになるか火を見るよりも明らかだった。
「それは、だんなさまがそうおっしゃるのでしたら決して他言は致しませんが...」
「頼むよ。ぼくにもちょっと考えがあってね。少なくとも今はまだ彼に知られたくないんだ」
基本的に楽天家で、ものごとにちゃらんぽらんなところがあるとは言え、ディが意味もなく自分の子供を隠しておくなんてことをするわけがないのもアーネストはよく知っている。その彼に考えがあるというのなら口出しする必要もないと判断して、彼は分かりましたと答えた。
そして翌日。カトリーヌはモルガーナ家までデュアンを送り届けたが、迎えに出たアーネストに息子を預けると、自分は山積みの仕事を口実に引き上げて行った。売れっ子イラストレーターであり、テキスタイル・デザイナーでもある彼女が、ひっきりなしに1ダースや2ダースの締め切りを抱えていることは珍しくないし、事実、今日も明日までの雑誌のイラストの仕上げが2件も残っている。しかし、彼女がここまで来ながらデュアンだけを置いて帰ろうと思っていたのは、子供と一緒におしかけて来たような格好になるのが何よりもイヤだったからだ。さすがにディの選ぶ相手のことで、そのあたりは彼女もよく出来た女性ということなのだろう。
アーネストの方は丁重に応対しながらも、昨日、主が言っていたのは間違いなく本当のことだったんだなとデュアンを見て一目で悟っていた。それはもう、子供の頃のディに生き写しなのだ。例え、何も証明するものがなかろうと、ここまでよく似ていたのでは疑いようもないほどだった。そして、そのアーネストの驚きは、そのままディのものでもあった。生まれたということは聞いていたものの、今日まで顔を合わせることすらなかった幼い息子が、こうまで自分によく似ているとはさすがに彼も予測していなかったからである。繊細な顔立ちはもちろんのこと、きれいに切り整えられた絹糸のようなブロンドなどは、今のディともすっかり同じと言ったっていい。
「やあ、デュアン?
よく来たね」
「こんにちわ」
広い庭を見渡せる明るいサロンにお茶の用意をして待っていたディに、デュアンはにっこりして挨拶したが、内心では何を喋ったらいいのか、相当パニクっていた。なにしろ、長年ずっとあこがれ続けていた画家が目の前にいて、しかもそれは初めて会う自分の実の父なのだ。
「どうぞ、座って」
促されてデュアンはディの向かいのソファにかけたが、そうするうちにアーネストがお茶の用意を運んで来て、その後から家政婦長のマーサも大きなワゴンを押して入って来た。ワゴンの上には、彼女が朝から奮闘して用意した焼きたてのお菓子が、何種類も綺麗に並べられている。アーネストの注いでくれるお茶の良い香りが漂う横で、ディが言っていた。
「どれがいい?
マーサのお菓子はとても美味しいからね。どれでも好きなものを切り分けてもらうといいよ」
「はい...」
ディはデュアンに、どれもきみのために焼いてもらったんだから遠慮しないようにと言って好きなものを選ばせ、自分も気に入りのブランディを効かせたチョコレートケーキを切り分けさせた。たちまちのうちにテーブルの上には、彼らが選んだケーキやコンポートの皿と、ふんだんに盛られたクッキーやボンボンの器が並び、お茶と香ばしいケーキの香りが絡まって楽しげなシンフォニーを奏でている。
デュアンもこれまで裕福な母に大事に育てられて来ているから、こういう贅沢には慣れているはずなのだが、門を入ってしばらくしてからやっと見ることのできたこの屋敷の壮麗な全貌や、ここまで歩いて来る廊下に飾られていた名画の数々、そしてこのサロンの豪奢なしつらえなど、どれを取ってもさすがに彼の日常にあるものとは掛け離れていた。これが貴族ってことなんだなあと感心しつつも、デュアンはそれらのせいで自分が場違いな存在の気もして、なんだか大変な所に来てしまったんでは?という気がし始めてもいる。
執事たちがテーブルを用意し終えて下がると、ディが言った。
「驚いたよ、きみが入って来た時。アーネストたちもきっとびっくりしていたと思うけど、タイムスリップしたみたいにぼくの子供の頃にそっくりなんだもの」
「そうなんですか?」
「自分で思ったことない?」
「いえ...、あの」
「なに?」
「なんだかまだ、夢を見てるみたいで信じられないんですけど...」
「何を?」
「あの...」
こんなことを言って、気を悪くされないだろうかと思いながらも、デュアンは先を続けた。
「本当にぼくのお父さんなんですよね?」
デュアンが随分戸惑っているのを見て、ディはそういえば、この子はぼくのファンだってカトリーヌが言ってたなと思いながら笑っている。
「そうだよ。信じられない?」
「ええ。だって、なんだか夢みたいで」
ディは頷き、それからテーブルの上のベルを鳴らしてアーネストを呼ぶと、ちょっと昔のアルバムを持ってきてくれないかと言った。しばらくして執事は何冊か豪華な装丁で飾られているアルバムを抱えて戻って来ると、それをディに渡して下がって行った。
「これなんか、よく分かるかな」
言って、ディが差し出したアルバムのページを覗きこんで、デュアンはびっくりしている。
「あれ?
これ、ぼく...、じゃ、ないですよね?」
「ぼくの子供の頃の写真だよ。母と一緒に写っている。それが、きみの亡くなったおばあさまだよ」
デュアンは頷いて、アルバムのページを繰ってみていたが、どのページにも確かに自分とそっくりな少年が、デュアン自身はまるで知らない人たちと一緒に楽しそうに写っていた。
「これで分かっただろ?
夢じゃないって」
言われてデュアンはディを見ると、はい、完璧に納得しました、と言った。そのもの言いにディはまた笑っている。
「面白いことを言うね。そういうのが流行ってるの?」
「いえ、そういうわけでは」
「きみくらいの年の子には、このところぼくはあまり縁がなくてね。そういう意味ではちょっと戸惑ってるかな、ぼくも。ああ、冷めないうちにお茶をどうぞ」
「はい」
そんなふうにちょっとぎこちなく始まった会見ではあったが、ディにはひと目見た時からなかなか可愛くて利発そうな子という好印象があったから、それはそれで楽しい午後にはなりそうだった。
「カトリーヌが言ってたけど、きみはぼくのファンなんだって?」
「ええ。まだうんと小さい頃にママの持ってる画集で初めて見て、それ以来」
「ふうん、そうなんだ」
「あの...」
「何?」
「お、...、お父さん、って呼んでもいいんでしょうか」
基本的にはきはきして活発そうなデュアンが戸惑いがちに言うのはとても可愛くて、ディはその問いに微笑して答えた。
「もちろん。だってきみは本当にぼくの息子なんだからね」
その答えにデュアンはほっとしたように笑って、じゃあ、お父さん、と言った。実のところ、息子が3人もいるはずとはいえ、こうして実際に顔を合わせたことはなかった上、「お父さん」などと呼ばれるのも生まれて初めてのことだ。面と向って言われてみると、ああそうか、この子は本当にぼくの子供で、ぼくはいつの間にか父親なんてものになっていたんだなと実感して、ディはちょっと不思議な感じがした。しかしそれは「お父さん」なんて言葉で誰かに呼びかけたのは生まれて初めてのデュアンにしても同じ気持ちだったらしい。
「わあ。なんかすごいですね、これって。本当にぼくのお父さんなんだ」
感慨深げに言うデュアンの様子にディも笑っている。
「ぼく、小さい頃からずっとお父さんのファンだったでしょう?
だから、ママから本当はこれがぼくのお父さんなんだって聞いた時には全然信じられませんでした。それからもずっと半信半疑だったし、会わせてって言ってもママはだめだめって言うばかりだったので」
「カトリーヌはぼくに気を使っていてくれたんだよ。ぼくとしては...、これは誤解のないように言っておかないといけないと思うんだけど、決してきみのことを疎んじていたとか、迷惑がっていたとか、そういうことは全くなかったんだよ。ただ、...まあ、きみもぼくのファンだって言うなら知ってると思うけど、なにしろぼくはこんなだからね。ある意味、父親としてはそもそも失格状態だと自分でもよく知ってるし、その他にもいろいろ事情があって、カトリーヌが何も困っていないならきみを任せておいても全然大丈夫だと思ってたんだ」
「ええ、それはママにも聞きました」
「だから、きみがこだわりなくぼくを父親と認めてくれているみたいなのは、ぼくにとっては嬉しいことなんだよ」
言われたデュアンも嬉しそうににっこりしている。
「カトリーヌと二人で何も不自由なことはない?」
「ええ、それは全く。ママとはとっても仲がいいんですよ」
「そう。じゃあ、学校は?」
「家から近いところに通ってます。だいたいみんな近所に住んでる子ばかりだから、幼稚園の頃からの友だちもいっぱいいるし」
「楽しい?」
「ええ、とても」
母親に愛されて幸せな毎日を送っていそうなのは一見して分かることだったが、ディには表向き父親がいない状態で育ってきたことが少し気になっていたので、それについても聞いてみることにした。
「でも、両親がそろっていない状態で育てちゃったからね。そのことでイヤなこととかは無かったのかな?」
言われてデュアンは少し考えてから答えた。
「それは確かに...。全然ないって言うとウソになりますけど、どこにだってヤなやつっているもんでしょう?
ぼくはそんなの何言われても気にしてないし、ママの息子だってことにもこれでちゃんと誇りを持ってるつもりですから。それに、仲のいい友だちもみんな、何か言われてもぼくに気にするなって言ってくれるから」
その答えにディは頷いている。カトリーヌもどちらかと言えば気が強い方だが、なるほど、この子もなかなかしっかりしていて強い子らしい。どうやら黙って苛められていそうにはないようだ。
「それにね、ぼく2年くらい前からは誰がぼくのお父さんなのかママに聞いて知ってましたから。ママが言っちゃだめっていうから一度も口にしたことはないけど、ぼくにはちゃんとこんなに素晴らしいお父さんがいるんだぞって思ってましたからね」
ディはそれに笑って、う〜ん、素晴らしいっていうのは買いかぶりかもしれないよ、と言った。
「誰が何と言ったって、ぼくにとっては素晴らしいんです」
「そう?」
「ぼく、ママにもいろいろ聞いてるし、生意気かもしれませんけど少しは絵を見る目ってあると思ってるので、お父さんが本当にすごい画家なんだってことくらいは分かってるつもりです。確かにぼくだってお父さんが側にいないってことが淋しいなって思うこともあったけど...。でも、お父さんほどの芸術家ならどんな生き方をしたって許されると思うし、その血を引いてるってことだけでもぼくには素晴らしいことだから」
デュアンが真面目に力説するのを聞いていて微笑ましい気分になると同時に、もしかするとこの子は難解な彼の絵の本質を、けっこう本当に理解して言っているのかもしれないなということにちょっと驚いてもいた。まだ十歳になるならずで、見るからに可愛らしい子という印象があったので、絵や芸術をマトモに理解する素地が既にあろうとは少しも考えていなかったからだ。
「なるほど。じゃあ、少なくともきみとしては今までのところ大して困ったことや、手に負えないことはないってことかな。ぼくの力を必要とするような?」
デュアンは少し考えて、今のところは特にありませんね、と答えた。
「でも、あの...」
「何?
何でも言ってごらん」
「あつかましいかもしれないんですけど、ひとつだけ、お願いならあります」
「いいよ、何?」
言われてもデュアンは、こんなことを言って一気に嫌われたりしないだろうかと不安ならしく、意を決して口に出すまで少し時間がかかった。
「あの...。ぼく、お父さんのアトリエって見てみたいんです。とても大事な場所だと思うので、ぼくなんかが入れてもらえるところじゃないって分かってはいるんですけど」
あまりにも畏れ多いことを口にしてしまったというように、だいぶリラックスして来ていたデュアンの態度が反転して一気に固まってしまったのを見て、ディはこの子は本マジでぼくのファンらしいなと悟っていた。画家としての彼がかなり気難しく、本当に親しい者以外はめったにアトリエに入れることすらしないのをウワサとしてよく知っているのだろう。しかし、自分の息子となればおのずから話は違ってくるので、ディとしてはそのデュアンの様子をまた微笑ましく思いながら笑って答えた。
「なんだ、そんなこと?
ぼくはまた、どんな重大なお願いをされるのかと思ったよ」
「重大ですよ、ぼくにとっては」
自分の無礼とも思える申し出をディがあまり悪くは気にしていないようなので、デュアンは少し安心したようだ。その様子にまた笑って、ディはいいよ、じゃあ、お茶が済んだら後で見せてあげようと言った。
「それとオマケにうちの美術コレクションの保管室も付けようか?
ぼくの絵もずいぶんあるよ?」
その申し出にデュアンは飛び上がらんばかりの喜びようだ。
「本当ですか?
見たいです。ぜひ! もちろん!」
長いこと側に置かずに外で育てた子供である。ディとしても、それなり恨み言のひとつも言われて当然かなという気もしていなかったわけではないので、デュアンがそんなことを特に気にせず伸び伸び育っているばかりか、彼のことをこの上もなく尊敬してくれているようなのが嬉しくないと言えばウソになった。内心、こういう子の父親ならなかなか悪くはないなと思いながら、ディはデュアンに頷いて見せていた。
original
text : 2008.3.15.-5.18.
revise
: 2010.5.18.
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