誘拐や銃撃戦という、それまでの日常とは全く掛け離れた経験に、デュアンも数日はさすがに疲れていたし、それでいてあれこれ考させられて眠れなかったりした様子だったのだが、それも一週間もすると落ち着いてきて、モルガーナ家にもごく当然の毎日が戻りつつあるようだ。大人たちが心配していたよりずっと早く、デュアンもエヴァも心理的なショックから立ち直ったようだったが、二人ともがあまり長く学校を休むと周りに不自然な印象を与えてしまうのではないかということで、どちらも生還して2、3日のうちには登校を始めていたから、それが返って気持ちを他に向けるのに役立ったのかもしれない。それに加えて、元々このコたちは普通に比べてずっと精神的に強いようでもあった。
その日もデュアンが学校に行って夕方頃に帰って来ると、着替えたらアトリエに来て欲しいというディからの伝言をアーネストが伝えてくれた。鞄を置いて楽な格好に着替え、デュアンはアトリエに行ってみたが、そこにはディだけではなくマーティアが来ていて、二人は楽しそうに話しているところだった。
「あれ?
マーティア、いらっしゃい」
「やあ、お邪魔してるよ」
「え?
ぼく来て良かったの?
アーネストがディが呼んでるって言ってたんだけど、お話中なんでしょ?」
「いいんだよ、きみを待ってたんだから。こっちに来て座りなさい」
ディに言われてデュアンはちょっと不思議な感じがした。どうやらマーティアとディ、二人揃って自分が帰るのを待っていたようなのだが、そんなことは今まで無かったことだし、それで何かマジメなお話なのかなと思ったからだ。しかし、彼はとりあえず頷いて、二人のいるソファの方に歩いてゆくとディの横にかけた。向かいに座っていたマーティアが言っている。
「デュアン、どう?
腕はもう大丈夫?」
「ええ、もうすっかり。それに、ぼくもエヴァも病院で検査してもらいましたけど、どこも異常はないって言われました」
「それは良かった、気になってたんだ」
「メルセデスが大破したような事故だったからね。二人とも運が良かったとしか言いようがないよ」
ディが言うと、マーティアも頷いている。
「で、あの?
ぼくを待ってたって?」
「ああ、うん。この前のことでね、今日はきみに少し話しておきたいことがあったんで来たんだよ」
「ぼくに?」
「そう。この前ちょっと聞いたと思うけど、きみが誘拐されたのはおれたちの仕事のとばっちりだったって話。だから、まずそのことを謝らないといけないな」
「謝るなんて、とんでもないです。マーティアやアレクさんが助けて下さったんだし」
「いや、そもそもがきみには何の責任もないことで辛いめに合わせたんだから。今いろいろ対策を考えてるところなんで、もう二度とこんなことにはならないようにするつもりだけど、許してくれる?」
「もちろんです。マーティアたちのお仕事のことはいろいろディからも聞いてるし、難しいことはまだまだよく分かりませんけど、少しはぼくも理解してるつもりですから」
その答えにマーティアはにっこりして頷いている。それへディが口を挟んだ。
「で、デュアン。ぼくもきみに謝らないといけないことがあるんだけど」
珍しくディが改まった調子で言うのでデュアンは笑っている。
「ディまで?」
「うん。そもそもね、きみに家を継いで欲しいって頼んだ時、ぼくは何も細かいことは説明しないままだったなと今度のことで気がついたもんで、もう一度話し合わないといけないかなと思ったんだ」
「どういうこと?」
「例えば、今度のようなことが起こるのもきみがぼくの息子で、しかもモルガーナ伯爵家の後継者なんてことになってしまったからで、カトリーヌの側にいればまず起こらずに済んだことだと思うんだ」
「それはそうでしょうね。まあ、一応あのママの息子だからいくらかまとまった身代金くらいは請求できるかもしれないけど、ケタが違うことは確かだし。それに、お話聞いてると今度のはなんかそういうのとスケール違ったみたいな気がするから」
案外にデュアンが淡々と答えるので、側で聞いていたマーティアは微笑している。ディや自分が気にするまでもなく、このコはけっこうそういうことが分かっているのかもしれないなと思ったからだ。
「ぼくは誓って隠してたつもりはないけど、言ってなかったのは確かにフェアじゃなかったと思うし、こういうめに実際に合ってみて、今きみはどう思っているのかなと。だから、きみがもし、これからもこういうことの起こる危険性と同居してかなきゃならないことがイヤだったら、家を継ぐのを考え直してもらっても...」
「え?」
「だから、ぼくとしては今ではこれでけっこうきみがぼく以上の伯爵さまになりそうな気がしてるんで、このままここにいてもらいたいんだけど、そうすると、どんなに気をつけてもこういうことは起こりうるし、きみが大人になったら今度はきみの子供がこういうめに合う心配をしなきゃならなくなるわけで、そんな面倒ごとや、責任やらなんやかや一生ついて回るわけだから」
「ぼくの子供?」
あまりに遠い将来のことでデュアンにはまるっきりピンとこない上、ディがそれを言ったということが、ちょっと気に障った。ぼくがいったい誰を好きだと思ってるんですか、という顔で彼はディを見て、それから、まあ、その話は後でもいいかと思い直した。
「そうするとディが気にしてるのは、モルガーナ家を継ぐのは大変だってこと?」
「まあ、そういうこと」
「ぼくは当然それって分かってたつもりだけど?
って言うか、それはさすがに今度みたいなことが実際にぼくに起こるとまでは殆ど想像もしてなかったし、ディに言われて継いでもいいよって言った時にはそこまで考えてなかったのは事実なんだけど、やっぱりこの家に来ればそれって大変なことかも?
くらいは見れば分かるじゃない。それに、そのあとファーン兄さんもいろいろ話してくれてたし」
「ファーン?」
「うん。知ってるでしょ?
ぼくが兄さんと仲いいの」
「それは知ってるよ」
「兄さんのお母さんって名門中の名門の一族じゃない?
だからぼくと違って兄さんは生まれた時からこういう世界で育ってるわけで、だからぼくが考えてもみてなかったようなことをいろいろ教えてくれるんだ。ぼくも早くこういう世界に馴染みたいから、兄さんと話すのは楽しいんだよ」
「そう...」
ディが意外そうな顔をしている横でマーティアが言っている。
「なるほどね」
「これでもぼく、まじめに伯爵さまになる勉強をしてるんですよ、マーティア」
デュアンはちょっと自慢そうに言って、マーティアが笑って頷くのを見て続けた。
「今度のことでね、ぼくもいろいろ考えてたんです。もちろん、ぼくは将来はディやママと同じ絵描きになりたいと思っているから、ファーン兄さんみたいにマーティアやアレクさんたちのようなお仕事をするようになるとは思えないけど、でもモルガーナ伯爵であるっていうことは、必然的に経済や政治についても通じていないといけないってことなんだなってディを見ていて思うし、イレーネのお城に行くたび思うんですけど、あの辺りでは今でもモルガーナ伯爵と言えばご領主さま扱いですよね。それだけモルガーナ家の力を必要としている人たちがいるということでもあるわけで、ディの後を継ぐということは、彼らの期待にいずれぼくが答えていかなきゃならないってことなんだな、とか。それに、モルガーナ家そのものもディの仕事も、アレクさんたちのやろうとしてることと無関係じゃないんだし」
「ふうん、そんなこと考えてたんだ」
ディが感心した様子で言ったので、デュアンはそちらを見てうん、と言い、頷いて見せた。それへマーティアが言っている。
「ごめん、デュアン。おれ、きみがもっと子供だと思ってたよ。なるほど、確かにディのお血筋ですかね。考えるべきことは考えてるってわけだ、降参、降参」
言われてデュアンは嬉しそうに笑っている。
「そうするときみはさ、こんなことがあってもぼくの後を継ぐのはイヤだとか、そういうことは全然考えてないんだね?」
「当たり前じゃない。ぼくはディやマーティアがそんなこと気にしてくれてるとは思ってもみてなかったから、その方に驚いてるよ。ただ、ぼくね。自分の立場がそうやって変わったことで、周りに迷惑がかかるかもってことまでは考えてなかったなと思ってたの。だから、例えば今度の場合、エヴァを巻き込んじゃったりとか」
「ああ...」
「それはやっぱりちょっと考えないといけないかなと思って。このまま今の学校に通っていて、万一また同じようなことがあったりしたら」
それを聞いてマーティアもディも考え深げに頷いている。
「ディは寄宿学校に行ってたんでしょう?」
「そうだよ」
「ファーン兄さんが言ってたけど、ああいうところってぼくたちみたいな子供が多いから、ふつうよりずっとセキュリティがしっかりしてるし、みんな同じような立場のコばかりってことで、そのへんはわりとお互いさまなところがあるって」
「それは確かにそうだね」
「そりゃあ、ぼくは今の学校の友達って大好きだし、エヴァやみんなと離れるのは淋しいけどさ。逆にだからこそぼくがいちゃみんなに迷惑かな、とか考えちゃうんだよね」
ディが頷きながらそれに答えた。
「う〜ん、確かにそれはあるなあ。今度のことでぼくが一番まいったことのひとつは、ヒトさまのお嬢さんまで危険な目に合わせてしまってるってことだったからね」
「でしょ?」
「ただ、きみを寄宿学校にやるなんて言ったら、カトリーヌが何て言うか」
「あ、そうか。忘れてた」
「それにきみも今言ったけど、仲のいい友達や慣れた環境から離れるというのはけっこう辛いもんだろ?
」
「うん。まあ、まだ決めたわけじゃないし、でもディがどう思うか聞こうとは思ってたんだ」
「それはきみ次第だよ。ぼくはきみの希望通りでいいと思ってるから」
「ぼくは出来れば今のままでいたいと思ってるけど...。だって寄宿学校に行ったら、何よりもディの側にいつもいられなくなるんだからね。だけどそれもわがままかなあと思ったり」
横で聞いていてマーティアは何か考えている様子だったが、二人の話が途切れると、セキュリティに関してならおれが力になれるかもしれないよ、と言った。
「対策は講じるって言っただろ?
いろいろ調整つけなきゃならないかもしれないんで、今ここでは請合えないけど、近いうちに連絡するよ。だから、寄宿学校にゆくにしろ、このままでいるにしろ、決まったら知らせてくれるかな」
ディはマーティアが何を考えているのかまでは分からなかったが、何かいいアイデアがあるらしいのを見て取って、そうするよと答えた。マーティアは頷き、それからデュアンを見て言った。
「それで、デュアン。おれの方の話なんだけど、本当はきみがさっき言ったようなこと、だから、モルガーナ家を継ぐってことについて今きみがどう思ってるかも聞きたかったし、それに今度のことの背景についてもちゃんと説明しておく義務があると思って来たんだけど、どうやらきみはおれが思ってたよりずっといろんなことが分かってるようなんで、心配するまでもないかなって気がして来た。それで、アレクからの伝言なんだけど、今度のことではきみにもエヴァちゃんにもご迷惑おかけしたので、二人とも何でもおねだりがあったら聞くよって。それとおれの方は、お詫びのしるしにもうすぐ春休みだし、良かったらアークで迎えに来るから、去年みたいにうちの島にご招待したいんだけど?」
聞いてデュアンは飛び上がって歓声を上げた。
「すごいですね。きっとエヴァも喜ぶと思います!」
「うん、じゃあ、細かいスケジュールは春休みの前になったら打ち合わせようか」
「はい」
「おれ、きみとはもっといろんなことをゆっくり話してみたいと思ってるしね。楽しみだよ」
「ぼくもです」
そう言ってからデュアンはふと思い出したように続けた。
「あ、そうだ。ぼくアリシア博士にまだお礼を言ってなかったんです。こっちに帰って来てから、どういうわけか顔を見る機会がなかったから。だから、助けに来てくれて有難うって伝えておいて下さいね。それから、今までぼく、彼には嫌われてるのかなと思ってたんだけど、そうでもないみたいだし、これからはもっと仲よくできるように努力するつもりですからって」
「いいよ、伝えておく」
言いながら、マーティアは内心笑っていた。「仲良くできるように努力する」などと聞いたら、アリシアがまたどんな顔をするか想像がついたからだ。ともあれ、話が一段落したと見て、ディが言っている。
「せっかく来てくれたんだし、今日は食事くらい一緒にして行ってくれるんだろ?
ただでさえなかなか顔見る機会もないんだから、積もる話もあるし」
横で聞いていたデュアンも、是非そうして下さいと言うので、マーティアはお言葉に甘えることにした。こうして見ていると、ほんの一年半くらい前にモルガーナ家に入ったとは思えないくらいデュアンはこの家に馴染んでいるように感じられる。そう思うとマーティアは自分がディの恋人で、彼に苛められてこのアトリエですったもんだしていた頃のことなんか、百万光年昔のお伽噺のように思えるよなあと、なんとなく感慨深げな気持ちで思い起こしていた。
original text : 2008.4.7.
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