「ニュージャージーのプラント視察を人まかせにしたそうだね」
八月も半ばを過ぎる頃、綾はどうしてもはずせない会議で一度東京に戻っていた。
彼女が会長室に入って行くと修三氏は机の向こうに立って窓の外を眺めていたが、振り返って久しぶりだね、と言った。その様子がいつもとまるで変わらないので綾は内心ほっとして全く警戒心なしににっこりすると、ほんと、ひと月くらい顔見てなかった、と答えた。けれども彼は穏やかな口調のまま切りこんで来たのだ。綾もやばいと思ったが、ここは言い訳するしかない。
「でも、あれはもともとぼくが行くことになってたわけじゃないし、報告書も読んで・・・」
「誰がきみに行ってきなさい、と言ったのか覚えているかな」
「・・・修三さん」
「きみは私の判断よりきみ自身の判断の方が正しいと思っているわけだ」
まるでからかってでもいるように責める様子の全くない優しい声で彼は言った。
「・・・申しわけ、ありません」
修三氏はしばらく何も答えないで立ったまま綾を見ていたが、その沈黙の一秒一秒が彼女にとっては物理的な痛みさえ伴っていた。けれども彼が次に言った言葉は、綾から仕事をおろそかにしていたうしろめたい気持ちさえ吹き飛ばしてしまうほど、反発心を引き出すのに充分だった。
「彼はきみに相応しくない」
誰のことを言っているのかは、はっきりとしていた。確かに仕事を放り出してまでウォルターの側にいたのは自分が悪い。おそらくその他にも綾が変更した予定を彼は全部知っている。そして綾がどうしてまや子さんにも電話だけしか入れず、彼に何の断りもなしに、どこで、誰と、何をしていたのかも全て知っているはずだ。綾にはそれが耐えられなかった。
彼に知られていることがうしろめたいのか、彼が知っていること自体が腹立たしいのかは彼女にもはっきりとしてはいなかったが、とにかく黙っていられなかったのである。綾は反射的に言い返していた。
「修三さんはぼくのこと何でもよく知ってるものね」
こういう場合、最後に強いのは綾の方だ。彼女が本気で怒ると地位も親子関係も逆転する理由が二人にはある。彼は言葉に詰まって長い間黙っていたが、やがて言った。
「痴話げんかに発展しそうだから、やめておこうか」
綾は自分がどういう態度で何を言ったのか気がついた。
「・・・ごめんなさい」
「いや、今のは私が悪い。きみのプライヴェートに口を出した」
「・・・・・」
「でもね、綾」
彼はひとつため息をつくと椅子にかけて続けた。
「友人の忠告として聞いてくれるなら」
「はい」
「後で一番辛い思いをするのはきみだよ」
「・・・・・」
「よく考えることだ」
「・・・はい」
「ね、綾」
彼は机に頬づえをつくと微笑して彼女を見た。
「休暇を取りなさい。彼のレコーディングが終わるまで」
「え・・・」
「考えてみるといい」
綾は反論しなかった。というよりも、できなかったのである。彼の言いたいことはよくわかっていた。
*****
二日ほどして綾がバハマに戻ると、スタジオの仕事に出かけているダンを残してウォルターも他のみんなもクルーザーで沖に出ているという。半分開き直って帰って来たものの落ち込みまくっているのも事実だったから、いきなりウォルターの顔を見なくてすんで綾はほっとしていた。
プールサイドのテラスに出てひとりでお茶を飲んでいると、スタジオから戻ったダンが綾を見つけてやって来て、お調子よく、なんだ、帰ってたの、と嬉しそうに声をかけた。
「うん・・・」
綾の様子がいつもと違うのに気づいてダンは向かいの椅子にかけると、どうしたんだ、と尋ねた。綾は気のない声で尋ね返した。
「聞きたい?」
「・・・何かあったの」
「休暇もらったの」
「休暇?!」
「そー」
「え。・・・姫、夏休みしてたんじゃないの、ここしばらく」
「とんでもない。みなさんがスタジオでお仕事してらっしゃる間、電話とファクスとキーボードで働いてたんですよー、実は」
「・・・要するにさぼってたのか」
「そーです」
「だったら休暇って。・・・もしかしてそれって仕事しなくっていいってこと?」
「当たり」
「したくってもしなくていいってことなのか」
「そう」
ダンはしばらく驚いていたようだったが、腑に落ちたらしくなるほど、と言って続けた。
「さぼってたのがバレてパパにしかられたな」
「そういうことです」
「・・・・・」
「言われたも同じなんだよね。今のおまえは使いものにならないって。よく考えてみなさい、だってさ」
綾がそんな無理までしてここにいたのはウォルターのせい以外の何者でもない。それを考えるとダンは引き合わせた責任を感じないではいられなかった。
「・・・厳しいパパだよな」
「厳しいですよ。仕事にかけては」
「で、いつまで仕事しなくっていいって?」
「ウォルターのレコーディングが終わるまで」
「なんだ、それもばれてるのか」
「あの人が見落とすと思う?」
「そりゃ思わないけど・・・。それって相当やばいんじゃないの」
綾は深くため息をついて頷いた。けれどもダンは心配していた事が突然現実になったのに気づいて複雑な様子で考えこんでいる。
「ウォルターには言わないでね」
「え・・・」
「もうすぐレコーディングも終わるし、それまで余計なこと考えさせたくない」
「姫」
「まあどうせこれだってRMC関連の仕事には違いないんだから、この際、開き直ってやるけどね、ぼくも」
「あのさ、姫」
「何?」
ダンはまだ少し考えていたようだったが、綾の最愛のお父さまにばれた以上もう黙って見ているわけにもいかないな、と決心して彼は言った。
「言っといた方がいいかとは思ってたんだけど、なかなか機会がつかめなくてね」
「何が」
「ウォルターのことどう思ってる」
「どうって」
「あいつの性格はよくわかってるだろ。いい加減に恋愛できるようなやつだと思うか」
「思わないよ、そんなこと」
「じゃあ姫はどうなんだ。あいつのこと好きなんだろ」
綾は頷いた。
「だから例えばウォルターと結婚する気があるのかってことだよ」
綾はあまりにも突拍子のない質問に言葉を失ってダンをまじまじと見返した。その顔だけ見ていても綾がそんなことは全く考えてみたこともないのはわかったから、彼は深く嘆息して言った。
「姫、あいつは考えてると思うよ。ただ今のこの状況じゃ言い出せないだけで」
「だってそんなの・・・。初めて会ってからだってまだ五か月だよ」
「そういう問題じゃないだろう。あのね、姫はわかってないかも知れないけど、ウォルターの性格で姫とつきあう気になるっていうのは、そこまで考えてるってことだよ。普通の女の子ならともかく・・・。あいつにとって姫はRMCの会長のお嬢さまなんだぜ。しかもあいつは女の子を踏み台にして成功しようなんて考えられる性格じゃないんだ。だから始めからやめておくか、つりあってないのも覚悟して努力するか、どっちかだと思う。まあ・・・、十七だもんな、姫だってまだ。そんなこと考えられないのも無理ないだろうけど」
綾はふいに以前ウォルターが言い出しかけてやめたことを思い出していた。普通なら気がつきそうなものなのに、今の今まで全く気に留めていなかったことに改めて気づいて綾は茫然とした顔をしている。
「しかもだよ。おれが心配してたのは、・・・ま、いろいろ理由はあるんだけど、まずもって姫のパパが許さないよな。いくら跡は姫に継がせるとは言ってもさ、結婚てことになれば姫を助けられるくらいの経営手腕は期待するだろ。日本人ってのはアメリカ人ほどそのへんラフじゃないし。・・・例えウォルターがどんなに成功しても、あいつは音楽以外で生きて行けないやつだしな」
綾が考えこんでいるのを彼はしばらく黙って見ていたが、ふいに尋ねた。
「あいつの両親の話、聞いた?」
「両親って・・・。早くに亡くしたって言ってたのは覚えてるけど」
「六つになるかならないかの頃だって。今のベンと同じくらいだったんだな。親父さんがピアニストでおふくろさんがクラブ歌手だったんだ。まあ言ってみれば音楽一家ってとこでさ。亡くなった時がまだ若かったから無名に等しかったけど、おれの友達に何人か二人を知ってた奴がいてね。どちらもいつレコードデヴューの話が来てもおかしくないくらいだったって言ってたよ」
「どうして亡くなったの」
「事故。カリフォルニアに仕事で出かけてた時に二人の車にトラックがつっこんでさ、即死だったって。あいつは両親いっぺんに亡くしておじさんちに引き取られたんだけど、子供も多くてそれほど裕福なうちじゃなかったから大変だったらしいよ。ピアノなんかあるわけないし、音楽どころじゃなかったって言ってた。でも三つの頃から鍵盤の前に座ってて、発声からきちんとお母さんに習ってたような奴がそれでやめられるわけないよな。そのうち学校なんかろくに行かないでクラブやライヴハウスで働いて、代わりに昼間弾かせてもらったりしてたらしい。で、十六、七の頃にはいっぱしスタジオ・ミュージシャンてわけ。まあ両親の友達がこの世界にはけっこういたらしいし、子供の頃からウォルターのことを可愛がってくれてた人も何人もいたって言うから、そのあたりは恵まれてたんだろうけど、並の努力じゃないくらいわかるだろ」
「・・・うん」
「だからあいつには音楽以外ないと言ってもいい。まあ、あの年であれだけ歌えるっていうのは、そういう回り道のおかげだろうけど、両親が生きてたらきっともっとずっと早くレコードくらい作れたろうね」
綾は頷いている。
「ま、どちらにせよ才能はあったわけさ。おれが初めてあいつに会ったのは六年前、ロン・クリークのサードをやってた時だった」
「ああ、知ってる。聴いたよ、それ」
「名盤だったろ」
「うん」
「そーゆーこと。ところがあいつは、こと自分のデヴューとなると、そりゃ世に出たくないとは言わないが、絶対こうでなくちゃ、というはた迷惑なまでの理想があった」
ダンの冗談口に綾は笑っている。
「蹴った契約書が通算十二枚、奇跡だよな、今の状況は」
ダンはにっこりして綾を見ると続けた。
「だからさ、姫。もしあいつのことを本気で考えてもいいって言うんなら別だけど、そうじゃないなら早いうちに分からせといてやってくれよ。そうじゃなきゃ、立ち直れなくなるからな」
「本気でって・・・」
「結婚してガキの一人も生んでやる、ってことだよ」
改めて言われて綾は深いため息をついた。例えウォルターでなくても綾は今の今まで結婚なんて自分の生涯に関係があるとさえ思っていなかったし、これから先だってあるとも思えない。加納修三の跡を自分で継ぐということは少なくとも綾にはそういう事だ。もっと子供の頃ならともかく、今はあの大帝国を自分の思う通りに動かすということは本格的に綾の夢になっている。経済という歴史ごと飲みこんだスケールの大きいパワー・ゲームに魅了されていると言ってもいい。
綾は今になって彼 ― 修三さんが、まるで心配もせずに休暇を取りなさい、と言った理由がわかったような気がしていた。それは、綾が彼からも仕事からも離れられないことを彼女よりもずっとよく知っているからだ。少なくともそれは今ではないということくらいは確信している。
けれども綾はまだ本当には彼の意図を理解していなかった。だから今ウォルターと別れるべきなのかどうかはっきり結論できないでいたが、それを理解した時に綾は自分とウォルターがどれほど遠い所にいるかを思い知ることになる。
綾はしばらく考えに沈んでいたが、やがてダンを見ると言った。
「ひとつ聞いていい?」
「なに」
「あんたはどうして結婚しないんだ? 息子までいるのに」
彼はしばらく黙っていたが、ドリーのおかげでね、と苦笑した。
「あいつって面白いやつでさ、私のこと愛してるなら結婚なんて考えないでって言われちゃったわけ。一緒にいるってことは愛してるってことだけど、結婚してるから愛してるってことにはならないんだってさ。つまり結婚してるからって安心して愛してるってことの手を抜いてほしくないって言うんだよ。おかしいだろ」
「・・・なんか、すごいね。それ」
「そうか?」
「心変わりされちゃったら未婚の母だよ、それって。よっぽど自信あるんだ、ドリー」
綾の言うのへダンは笑って答えた。
「そうだな、考えてみればそうかも知れない」
「・・・・・」
「でもさ、そのおかげでよくわかったことがある」
「何?」
「おれにはドリーしかいないってことさ。それにあいつにもね」
綾は押し黙っている。
「結婚なんてのは単なる手続きだけどね。要はどれくらい愛してるかってことさ。わかるだろ、姫なら」
綾は少しずつ自分がウォルターにどのくらい酷いことをしているか分かりかけていた。今の綾にダンと同じことは言えない。しかし、彼女がそれを決定的に認識するのはまだしばらくあとのことだった。
Book1 original text
: 1996.10.15〜1997.1.15.
revise : 2008.9.23.
revise : 2010.11.29.
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