洋楽の歌詞の中には日本の歌謡曲のように単なる架空の恋愛について歌ったものではなく、哲学的に非常に深淵な意味を持つものがあると気がついたのは、かれこれ15年以上も前のことです。そして、それと同時にそれらを翻訳する技量を多くの歌詞対訳者が持たないことにも気付かざるを得ませんでした。おそらくこれは、その対訳者が不勉強であるから、というよりも、日本のヨーロッパ文化に対する理解が明治維新以来正しくなされていないという、この国の文化的背景に起因するものだと現在では考えています。

一般にロックやポップスなどというものは、娯楽音楽の範疇におかれ、そもそもの始めは英語をよく分からない日本のリスナーに歌詞の内容を知ってもらおうと始められたのが対訳であったはずです。例えば多くのスタンダード・ジャズのように内容が日本の歌謡曲同様それほど複雑ではなく、架空の恋愛について歌ったような単純なものであれば、英語が理解できるレベルの翻訳者で十分間に合いました。ところがヨーロッパには伝統的に象徴詩と呼ばれる詩の分野があり、これは宗教的背景ともあいまって、そもそも言語圏の違う日本人には極めて不慣れな領域です。けれども例えロックやポップスのミュージシャンと言えども彼らの文化的背景には確固としてそうした知的側面の裏付けがあり、自らの思想性を音楽に乗せて歌おうとした場合、彼らの属する文化に内在している方法論としての象徴詩を用いることは全く自然なことであったと考えます。ここに、日本とヨーロッパ世界の認識誤差が生じ、思想性を背景に持った作詞者たちの作品を、まったくそれまでと同じ無意味な歌謡ポップスとして紹介してしまうという悲劇を招いてしまったのです。

象徴詩を理解するには、英語そのものの知識よりもなお、哲学的、文化的造詣の方が必要になります。言ってみれば、それは全く専攻の違う分野の知識を必要とするということです。

ところで3年半前、私がこのStudy of the Lyricsを書き始めた時は、こうした歌詞の内容の論理的な部分は一般のリスナーに全く必要でないもの、興味を持たれないものと考えていたのですが、なかなかどうして何が歌われているのか真意を知りたいという方もあるらしく、海外からも「翻訳してくれるのを待っている」というようなメールを頂くことがありました。また日本のリスナーにしても興味を持たれる方は決して少なくないようです。伺うところによりますと、私ばかりではなくこうしたレコード業界の無理解からくる誤訳に気付いておられ、ご自身のサイトで解説や対訳を公開しておられる方も何人かあるといいます。そう考えてくると、やはり今後この問題に関しては、このまま同様の誤訳の可能性を内在させたまま続けさせるべきではないと思わざるをえません。またこういった歌詞の内容が、英語圏では一部ではあっても理解されているからこそ、そうした伝統や方法論を受け継いで、次々と素晴らしいアーティストが生み出されてくる。また経済界においても、現在アメリカの若い成功者には、自らの成功から得た富を社会の改善につぎ込むことこそがトレンディと考える人たちも多い。これはかつてのウッドストックに感銘を受けた世代であると思いますが、このように歴史の様相に大きく影響を与える文化を、理解出来ないというだけの理由で出鱈目な解釈をさせたまま放置するのは日本の将来にとっても悲劇的なことでしょう。

そういったこともあって、これまでサイトのすみで密かにやっていた歌詞研究ですが、もう少しオープンにお目にかけても良いのではないかと思うようになりました。もちろん、ここで書いていることは、現時点ではあくまで私個人の歌詞解釈を基盤としており、これと違う解釈を持っておられる方もあるかもしれません。ただ、そういう方でも洋楽の歌詞に何らかの深淵な意味のあるものがある、いえ、おそらくは多くのアーティストの作品がそうであるということに関しては意見の一致を見て頂けるのではないでしょうか。私にとっては何よりもこの研究から日本の方々にも垣間見て頂きたいことは、その点なのです。支離滅裂で意味をなさない歌詞対訳からは、そういった認識は決して生まれません。

どちらにしましても、いずれ相応に研究が進みましたら、何らかの形で歌詞の原作者の確証を得たいとは思っておりますが、ともあれ、あくまでここに書かれてあることはひとつの見方としてお読み頂き、ただ「洋楽の歌詞には深い意味がある」という理解をお持ち頂ければ幸いです。

2003.7.13.

橘 彩子

Study of the lyrics INDEX <<

>> Study of the lyrics 序章