1956
グリーンは6月22日サウス・ウエールズのカーディフ・マタニティ・ホスピタルにて生まれる。名字はストロメイヤー。彼のファースト・ネームは(インタヴューでは決して明かされていないが)その頃の英国で男の子の名前としては最も多かった5つのうちひとつであるらしい。(マイケルという説もある)
グリーンが十代に入る前に、家族はサウス・ウエールズ中を引っ越ししていた。彼の父はその後セールスマンとして各地を転々としていたので、グリーンはあまり一緒にいられなかったようだ。両親は結局父親のいい加減さが原因で離婚している。
1964
グリーンは8才になり、ビートルズの“リヴォルバー”を手に入れる。
その頃から彼はNME(音楽誌)を購読するようになった。
1968
グリーン(12才)ケアフィリー・ボーイズ・グラマー・テクニカル・スクールに入学。
しかしドイツ系の姓を持っていたおかげでいじめられたことが原因で、後に転校することになる。同時に成績が良くなかったため(おそらくいじめられていたことが原因だと思われるが)彼の母親はそれを音楽のせいにして、壁のポスターを破いたり、レコードを壊したりしたという。
グリーンの母親はこの頃再婚し、(仕事先の法律家との再婚だったが、20才年上の人とだった)その結果、彼は幸運にもドイツ系でない名字であるガートサイドを名乗れることになる。
1970
グリーンは始めてのコンサートに出かけるが、それはレディング・ロック・フェスティバルでのロッド・ステュアートだった。
1971
グリーンは学校の友達だったナイアル・ジンクス(スクリッティのオリジナル・メンバーの一人。ナイアルの父親は共産党の背景を持っていた)と共産党の青年部を始めようとするが、メンバーはその他に1名のみだった。こうして共産党に関わったためナイアルはひどくぶちのめされることになる。
1972
この年の半ば、グリーンは自分の名前を(グリーンに)変える。列車に乗っていて、始めに浮かんだ言葉を名前にしようと決めた彼が窓の外を見ると、真夏だったために目に入ったのは一面の生い茂る緑だった。
1974
グリーン(18才)最低の成績にもかかわらず、...後に彼がインタヴューで語ったところによると、テストの時はいつも二日酔いだったそうである...リーズ・アート・カレッジにて席をオファーされる。ナイアル・ジンクスはその頃洗濯屋で働き始めた。
1976
グリーンはリーズの学校でカヴァー・バンドであるジ・アゲンストに参加する。
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